『思ひ出 抒情小曲集』/童謡集「とんぼの眼玉」

                 
詩集『思ひ出 抒情小曲集』序文「わが生ひたち 7」について
川本三郎「白秋望景」新書館(2012年2月10日)『4 赤の発見 ー「色彩詩人」白秋 白の記憶』について
『十代の頃に雅号を「白秋」としたことからもうかがえるように、白秋は色彩に敏感だった』と述べ、白秋の第二詩集『思ひ出 抒情小曲集』のいわゆる序文の「わが生ひたち 7」についての薮田義雄「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)の文章の一部を引用し(下記参照)、「白蝙蝠傘」の記憶に関連して『・・白秋が「白の記憶」を詩作の根底に置こうとしたしたことは疑いない』 と述べている。さらに歌集『桐の花』の「廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける」を引用して、この場合「たんぽぽは白」だとし、続いて親友の中島鎮夫の自刃のエピソードを取り上げ、『自刃した中島鎮夫の号は「白秋」に対して「白雨」。二人は「白」によって結ばれていた。白は、柳河で過ごした白秋の子供時代、少年時代の無垢の象徴になっていたといえる』と述べている。
引用者註:これらははなはだ疑問のある記述と言わざるを得ない。

@明治三十四年の冬に館の有志に呼びかけて、「文学界」を起し、廻覧雑誌『蓬文』を出し、この頃籤引きで「白」を頭にしたペンネームをつけあった(白秋や白雨の雅号の由来については「北原白秋の雅号の由来」のページを参照して下さい)。

A「白蝙蝠傘」の記憶は海についての白秋の第一の印象であり、「白蝙蝠傘」の記憶が単独に意味をもっているわけではなく、ましてや「白」の記憶だけを取り上げて特別な意味を持たせようとするのは無意味である(下記の文章を参照して下さい)。

B「廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける」の「白き」はたんぽぽの花の色ではなく、冠毛である(「郷里柳河に帰りてうたへる歌」のページを、たんぽぽの詩に関しては『歌集「桐の花」・詩「たんぽぽ」』のページをそれぞれ参照して下さい)。

C「白」を頭にしたペンネームをつけあったということで白秋や白雨の他にも白蝶(白影)、白葉、白月、白川がいる。「白」によって結ばれていたというが、そのような事情があっただけのことである。ただし、中央投書誌「文庫」へ短歌作品では百十八首を送稿しており、白秋と並んで才を発揮したのは白雨であった。白秋は最大の友人を喪い、悲しんだといわれる。

D白秋の「白」・「秋」への関心は次のとおりである。

好きな色は「薄紅(うすべに)」・好きな季節は「

・『久保節男著 「北原白秋研究ノートT 補訂版」啓隆社』によれば、『福岡日日新聞明治35年6月4日「葉書文学」欄の前』に『文学同好会の席上で各自の好きな色を問ふたれば、(途中略)露子、露骨、白秋は「薄紅(うすべに)」、倭棚、来城、渓月は「白」(途中略)それから好きな季節は如何にと云ふに (途中略)春」といふが白秋来城、唖蝉(途中略)戯れながら夫々の気質が窺える。(席末子)』 とある。ときに白秋17歳。

・「白秋全集38 小篇4」(岩波書店)のP399「アンケートへの回答」の中の『「趣味と好尚」一好きな色は?』に対して「物言はぬ金無垢の弥陀の重さよ。」『大正3年8月15日「文章世界」9巻9 号』と答えている。ときに白秋29歳。 
Eなお、川本三郎「白秋望景」新書館(2012年2月10日)では、中島鎮夫の自刃のエピソードの引用が、(随筆「上京当時の回想」大正三年)とあるが、「白秋全集35 小篇1」(岩波書店)によれば、『上京当時の回想 附―処女作のことども 〔大正3年9月1日〕「文章世界」9巻10号』とあり、文章の最後に(談)とあるので随筆ではない。また久保節夫「北原白秋研究ノート T 柳河時代の作品とその交友 補訂版」(啓隆社)P35 にも北原隆太郎氏よりの教示の来信で「上京当時の回想(談)」との記述がある。


薮田義雄「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)に以下のような文章がある。
第一章 白蝙蝠傘の記憶と水ヒアシンス
(前略)
 あまり世に知られていないことだが、白秋は一歳の夏、母と肥前の小浜に遊びに行った折、じぶんにさしかけられた白蝙蝠傘をはっきり憶えているそうである。昔は日除用に白い蝙蝠傘を使ったもので、私の子ども時代にはうちにもたしかそういう物があった。白秋は先にもしるしたように一月二十五日の出生だから、その年の夏といえば七カ月くらいにしかなっていないはずである。それが白蝙蝠傘を憶えているとすれば驚嘆すべきことだが、真偽のほどは疑わしいと最初私は考えた。
 この記録の拠りどころは、当時わたし(ママ)が愛読していた「新潮」に毎号連載されていた文壇諸家年譜の内、大正六年十二月号所載、北原白秋年譜に記載されていた事項である。この年譜はその頃、本郷区動坂町三六四番地に居住していた白秋を新潮記者が親しく訪ねて正(ママ)査した資料にもとづくもので、「その性格と詳密とは記者の密かに自負するところ」と特に断わり書きがしてある。そこで私は後年、白秋門に入って直接教えを受けるようになってから、不躾にもこの疑問について訊ねてみた。憶えているどころではなく、今もありありとこの眼の中にあの白蝙蝠傘が残っていると言われたので、二の句も継げないほどに感じ入ったものだった。
 それは海にまつわる記憶だというのであった。じぶんを抱いて舟から上陸したひとがさしかけていた白い蝙蝠傘が、真夏の陽に照り輝いて、眼も眩しいほどだった。後になってそれは小浜の湯治場に滞在していた身寄りの女性を、母に伴われて見舞いにいったときのことだとわかったが、その女性と何年ぶりかにめぐりあって、その日の海のいろと白蝙蝠傘の印象を語ったところ、たまげるほどに驚かれたというのであった。
「でも、当歳だとすると、生後七カ月くらいにしかなりませんね」
私の疑問に対して、「・・・・・・あるいは二歳だったかもしれないな」
含みのあるいいかたをした。
(後略)

上記の文章について文献「日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集」(角川書店)を参考にして一考する。
(1)著者は「あまり世に知られていないことだが」と書いているが、以下に示すように白秋の第二詩集『思ひ出 抒情小曲集』のいわゆる序文の「わが生ひたち 7」に書かれている。
「日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集」(角川書店)より
「思ひ出 抒情小曲集」 
わが生ひたち 7
私はこの當時まだあの蒼い海といふもの曾て見たことがなかつた。海といふものに就ての私の第一の印象は私を抱いて船から上陸した人の眞白(まつしろ)な蝙蝠傘(かうもりがさ)の輝きであつた。それは夏の眞晝だつたかも知れぬ、痛(いた)いほど眼(め)に沁んだ白色はその後未だに忘れることが出來(でき)なかつた。それが何時(いつ)だつたか、それからどうしたか、さつぱり私には記憶がない。それが不圖(ふと)したことからある近親(みより)の人の眼を患つて肥前小濱(をばま)の湯治場(たうぢば)に滯留してゐた頃、母と乳母とあかんぼと遙(はる)ばる船から海を渡つて見舞に行つた當時の出來事だということがわかつた。その話から、不思議(ふしぎ)に Tonka John の記憶にもまだ殘つてゐたことを聞いた時のその人の驚きはをかしいほどであつた。何故ならばその當時私はまだほんの乳(ち)のみ兒で當歳か、やつと二歳(ふたつ)かであつたのである。
(2)文献234ページの頭註によれば、「わが生ひたち」の初出は『時事新報』で明治四四年五月一日より二七日まで、一二回にわたって連載され、明治四四年六月五日、東雲堂書店刊となっている。著者は『「新潮」に毎号連載されていた文壇諸家年譜の内、大正六年十二月号所載、北原白秋年譜に記載されていた』と書いているが、「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)の初版が発行されたのは昭和四十八年六月十五日であり、すでに作品「思ひ出 抒情小曲集」は広く知れ渡っていたし、著者も「わが生ひたち」を引用しながら議論を展開している。それにも関わらず、「わが生ひたち 7」の記述をそのまま引用しないで、「あまり世に知られていないことだが」と書いたのはなぜなのか疑問が残るところである。考えにくいことだがおそらくは白秋との会話の印象が強く、当時を思い出しながらの記述もあって「あまり世に知られていないことだが」とその当時の事情のままを書いてしまったのではないだろうか。
(3)「評伝 北原白秋」には「白秋は一歳の夏」とある。
さらに
「でも、当歳だとすると、生後七カ月くらいにしかなりませんね」
私の疑問に対して、「・・・・・・あるいは二歳だったかもしれないな」
含みのあるいいかたをした。
とある。
しかし「わが生ひたち 7」によれば「当歳か、やっと二歳かであったのである。」と全部書かれている。すなわち「当歳」とは「その年にうまれたこと」であるが、当時の年齢の表し方はいわゆる”数え年”であったと思われるので、数え年で一歳となる。仮にその夏の日を8月25日とすれば、白秋は1月25日生れであるのでちょうど生後7カ月ということになる。また、二歳と言えば生れた年の翌年ということになり、上記の仮定を適用すると、ちょうど1歳7カ月の夏ということになる。まさに白秋の言葉通りのことが作品に書いてある。
(4)さて白秋は「わが生ひたち 7」で、「白い蝙蝠傘」の記憶の他は「それが何時だったか、それからどうしたか、さっぱり私には記憶がない。」と書いている。その他の記憶は後日、偶然の機会に見舞いを受けた人に教えてもらったかのように書いている。ということは何歳の時かは白秋自身の記憶ではなく、教えてもらったということである。「当歳か、やっと二歳か」と幅があるのも教えた人の記憶のはあいまいさを表していることになる。
(5)「北原白秋詩集」(角川書店)の鑑賞(吉田精一)p250には、白秋の単なる紹介の一部として、次のような記述がある。
 「生まれた年の夏、母と肥前小浜に行ったが、母のその時さした白蝙蝠傘の記憶がのちまで眼底にあったという。」
ここで「わが生ひたち 7」の「当歳か、やっと二歳か」に対して「生まれた年の夏」としているのは一つの問題点である。もう一つは「母のその時さした白蝙蝠傘」としていることである。「わが生ひたち 7」では「私を抱いて船から上陸した人の眞白(まつしろ)な蝙蝠傘(かうもりがさ)の輝きであつた。」とある。すなわち「白蝙蝠傘」をさしていたのは「母」とは書いていない。「わが生ひたち 7」には「母と乳母とあかんぼと遙(はる)ばる船から海を渡つて見舞に行つた・・」とあるので「乳母」が「白蝙蝠傘」をさしていたのかもしれない。つまり、母と乳母と三人で行ったということ、乳母の同行はそもそもそういう役目もあったはずで「私を抱いて船から上陸した人」は乳母の可能性もあるということである。「わが生ひたち 7」には上記に引用した文章につづいて『次で乳母の背なかから見た海は濁(にご)つた黄いろい象(ざう)の皮膚のやうなものだつた。』と書いている。
「わが生ひたち 7」で「海といふものに就ての私の第一の印象は私を抱いて船から上陸した人の眞白(まつしろ)な蝙蝠傘(かうもりがさ)の輝きであつた。」と述べている。つまり「白い蝙蝠傘の輝き」は海についての白秋の第一の印象であり、「白蝙蝠傘」の記憶が単独に意味をもっているわけではなく、「海」につながっている記憶なのである。「白蝙蝠傘の記憶がのちまで眼底にあった」の文章を読む際には注意が必要であり、ましてやこのうちの「白」の記憶だけを取り上げて特別な意味を持たせようとしてもナンセンスである。



『白秋全集25 童謡集1(1987年1月8日発行)』(岩波書店)の

『とんぼの眼玉』の表紙写真の謎?

初版の表紙に文字が?
白秋の第一童謡集「とんぼの眼玉」の表紙の写真が掲載されている。写真には『トンボの眼玉 北原白秋』の文字がある。しかし『白秋全集25 童謡集1』の後記P419の『とんぼの眼玉』の表紙の説明には【表紙には文字が無く背表紙に『トンボの眼玉 北原白秋』の文字がある】と書いてある。また本の大きさは縦十八・八センチ、横十三・一センチとある。





「初版表紙」と説明のある『白秋全集25 童謡集1』の「とんぼの眼玉」の写真

本の横幅が広い?
表紙写真の寸法を測定すると縦十0・0センチ、横七・六センチである。『白秋全集25 童謡集1』に書いてある実際の本の大きさから縮尺を求めると縦1/1.88、横1/1.74である。すなわち写真は縦に比べて横幅が大きくなっていることを示している。
復刻版について
『とんぼの眼玉』の復刻版(日本児童文学館 昭和47年10月 ほるぷ出版刊)を見る機会があったので、実際の寸法を測った結果、表紙の大きさは縦十八・七センチ、横十三・0センチ(このうち、赤茶色の部分は十一・七センチで緑色の部分は一・三センチである)で、『白秋全集25 童謡集1』に書いてある寸法とほぼ同じであった。また本の厚みは一・三センチであった。
表紙写真の横幅は本の厚み分だけ大きい?
先に求めておいた『白秋全集25 童謡集1』の表紙写真と「後記」に書かれていた実際の本の寸法との縮尺のうち、縦の縮尺1/1.88を用いて写真の横の寸法から実物の本の横幅を算出・推定すると十四・二センチとなった。横十三・一センチと書かれているので、写真の横は差し引き1.1センチほど幅広である。復刻版の本の厚み一・三センチにほぼ一致している。
背表紙も映っていた表紙写真
『白秋全集25 童謡集1』の「とんぼの眼玉」の写真の横幅が、ほぼ復刻版の厚みの実測値だけ大きくなっていることがわかり、表紙写真には背表紙も映っている写真であることが寸法上から推定できる。ただ、横方向が歪んだ状態の写真なので当然誤差が含まれる。
誤解を与える『白秋全集25 童謡集1』の『とんぼの眼玉』の写真
『白秋全集25 童謡集1』の『とんぼの眼玉』の写真説明に「初版表紙」と書いてあり、以下に示す復刻版の写真のように表紙と背表紙の境界も判別できないことから、表紙に文字があるものと誤解を与える恐れがある。
背表紙も含めた表紙の写真
 


「とんぼの眼玉」復刻版の背表紙も含めた表紙の写真


引用者註:実は岩波書店「白秋全集」には「とんぼの眼玉」以外にも単行本の背表紙も含んだ表紙の白黒写真が「表紙」として紹介されている。上記のようにその写真だけを見ると誤解を招く恐れがあるが、後記には表紙、背表紙、裏表紙などについて説明されているので、写真と照らし合わせてそれらを詳細に読めば誤解はないと思われる。
白秋の第一童謡集には三つの表記がある
「トンボの眼玉」「とんぼの目玉」「蜻蛉の眼玉」
「白秋全集25 童謡集1(1987年1月8日発行)」(岩波書店)には『とんぼの眼玉』『兎の電報』『まざあ・ぐうす』『祭りの笛』はいずれもアルス刊行の初版本を底本に用いて掲載されている。 
白秋の最初の童謡集『とんぼの眼玉』は弟の北原鉄雄の営むアルス(東京市神田区中猿楽町十五番地)から1919(大正8)年10月15日に刊行された。定価一円九十銭である。

引用者註:「白秋全集25 童謡集1 (1987年1月8日発行)」 (岩波書店)では「とんぼの眼玉」という書名で扱っている。また「白秋全集 別巻」(1988年8月30日発行)」 (岩波書店)の年譜でも同様である。

引用者註: 『インターネット検索「池田小百合なっとく童謡・唱歌」事典』に次のように書いてある。
【『トンボの眼玉』か『とんぼの眼玉』か】
童謡集『トンボの眼玉』の表紙には書名はなく、箱表紙と本扉は『トンボの眼玉』であり、中扉および奥付の前ページは『とんぼの眼玉』となっている。(収録詩のタイトルは「蜻蛉の眼玉」)。アルス社の広告では『トンボの眼玉』もあるが『とんぼの眼玉』が多い。薮田義雄著の「著書目録」でも『とんぼの眼玉』としている。装幀者が『トンボの眼玉』としたことも推測できます。(注)『トンボの眼玉』(アルス 大正八年)は旧漢字を使用している。原本は国会図書館藏。

白秋の第一童謡集(大正8年)の本について
『とんぼの眼玉』の函は「北原白秋著」「トンボの眼玉」「絵入り童謡集」、函の裏側は「合資会社」「アルス」「発兌」、函の背は「トンボの目玉」「北原白秋」と書かれている。

  

本の表紙は模様のみ、裏も同じで、背は「トンボの眼玉」「北原白秋」と書かれている。

   

本扉は「白秋童謡集」「トンボの眼玉」「第一集」「絵入」「アルス」「「発行」と書かれている。



「はしがき」に続いて目次と挿畫目次があり、それぞれ「とんぼの目玉」と書かれている。

          
        目次             挿畫目次

中扉には「とんぼの眼玉」と書かれている。そのあとに最初の詩「蜻蛉の眼玉」が掲載されている。

   

末尾の一五二ページに「とんぼの眼玉終」とあり、次ページが奥付である。



「はしがき」や奥付には書名が出てこない。
目次、挿畫目次、中扉、末尾の「とんぼの眼玉終」が「とんぼの眼玉」と書いてある。函の表と裏、本の背表紙、本扉は「トンボの眼玉」と書いてある。詩の題は「蜻蛉の眼玉」である。

引用者註:上記のように初版本の童謡集『とんぼの眼玉」では作品の詩は「蜻蛉の眼玉」であるのに、目次には「とんぼの眼玉」と書いている。「白秋全集25 童謡集1 (1987年1 月8日発行)」 (岩波書店)」の目次は「蜻蛉の眼玉」として作品名と一致させている。

  

『とんぼの眼玉』の普及版
『とんぼの眼玉』は「十五版」のとき、普及版のかたちで装幀を改め、1924(大正13)年6月10日、アルス(東京市小石川区表町109番地9より刊行された。定価一円五十銭。
表紙の装幀は矢部季より森田恒友に変更。表は薄茶の下地に、上下それぞれ十本前後の撫子の花を配し、花の色は水色、花の中央は黄色、中央に「トンボの眼玉」と森田恒友の字で縦書で金箔押し。

引用者註:「白秋全集25 童謡集1 (1987年1月8日発 行)」(岩波書店)P428より。

白秋自身は第一童謡集(大正8年)は「とんぼの眼玉」
「とんぼの眼玉」:白秋の第二童謡集「兎の電報」(大正十年)の「はしがき」には『「とんぼの眼玉」が綺麗な本になって出てから、もうあしかけ三年になりました。』と「とんぼの眼玉」の言葉を使っている。

引用者註:「白秋全集25 童謡集1」(1987年1月8日発行)(岩波書店)より。

「とんぼの眼玉」:『蛍と苺 白秋童謡集1 (大正一一年一一月三日)』(アルス刊行)の「童謡普及版について」の中で「とんぼの眼玉」と書いている。

引用者註:「白秋全集38 小篇4」(1988年2月29日 発行)(岩波書店)より。

「とんぼの眼玉」:アルス刊『白秋童謡集』第一巻(大正十三年七月一〇日)では「とんぼの眼玉」を用いている。

引用者註:「白秋全集25 童謡集1」(1987年1月8日発行)(岩波書店)より。

「とんぼの眼玉」:〔『白秋詩歌集』第五巻 昭和16年4月20日刊〕(河出書房)の後記において「とんぼの眼玉」を用いている。

引用者註:「白秋全集38 小篇4」(1988年2月29日 発行)(岩波書店)より。

白秋自身による年譜では「蜻蛉の眼玉」
「蜻蛉の眼玉」:[『現代短歌全集』第九巻「北原白秋集」昭和4年9月30日刊]の白秋自身による年譜には『大正九年(三十六歳)十月、童謡の第一集「蜻蛉の眼玉」を出版』とある。

引用者註:「白秋全集38 小篇4」(1988年2月29日 発行)(岩波書店)より。ただし、大正九年十月とあるが、大正8年10月15日の誤りである。

アルス版全集第九巻「童謡集 第一」(昭和四年)では「蜻蛉の眼玉」
「蜻蛉の眼玉」:アルス版全集第九巻の「童謡集 第一」(昭和四年一一月一日)では「蜻蛉の眼玉」を用いている。この「蜻蛉の眼玉」は、第一童謡集「とんぼの眼玉」28篇から「南京さん」、「曼殊沙華」、「屋根の風見」の三篇を削り、「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」を付け加え、さらに「犬のお芝居」、井戸掘り」の二篇、「一羽の鳥は」など「台湾童謡訳」の四篇、「薄」など四篇、合計三六篇で構成されている。

引用者註:「白秋全集25 童謡集1」(1987年1月8日発行)(岩波書店)より。

他の書籍ではどのように扱われているか
@輿田準一編「からたちの花−北原白秋童謡集−」(昭和39年8月10日五刷)(新潮社):「蜻蛉の眼玉」(本文)及び(解説)

引用者註:アルス版全集第九巻の「童謡集 第一」(昭和四年)の「蜻蛉の眼玉」を引用しているにも関わらず、大正8年の第一童謡集の単行本「とんぼの眼玉」の紹介及びそれからの引用とした勘違いによる。
A日本近代文学大系第28巻「北原白秋集」(昭和45年4月10日初版)(角川書店):「とんぼの目玉」(年譜)
B「新潮日本文学小辞典」(昭和50年9月20日7刷)(新潮社):「トンボの眼玉」(本文)
C日本の詩集3「北原白秋詩集」(昭和52年2月20日9版)(角川書店):「トンボの眼玉」
(年譜)
D現代日本の文学U−3「北原白秋 斎藤茂吉 釈 迢空 集」(昭和59年5月20日7版)(学習研究社):「トンボの眼玉」(年譜)
E『文 久保節男 写真 熊谷龍雄「白秋の風景」』(昭和59年11月6日)(西日本新聞社):「とんぼの目玉」(略年譜)
F現代日本文學体系26「北原白秋 石川啄木 集」(昭和60年11月10日初版13刷)(筑摩書房):「とんぼの眼玉」(年譜)・「とんぼの眼玉」(著作目録)
G「北原白秋 高村光太郎 宮澤賢治 集」(1984年10月1日初版第4刷)(筑摩書房:「トンボの眼玉」(年譜)
H藤田圭雄編「白秋愛唱歌集」(1995年11月16日第1刷)(岩波書店):「とんぼの眼玉」(本文)
I上笙一郎編「日本童謡辞典」(2005年11月21日再販)(東京堂出版):「とんぼの眼玉」(本文)
J川本三郎著「白秋望景」(2012年2月10日第1刷)(新書館):「とんぼの目玉」(略年表)
K中野敏男著「詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」」(2012(平成24年)5月30日第1刷):「とんぼの眼玉」(年譜)
L今野真二著「北原白秋 言葉の魔術師」(2017年2月21日)(岩波書店):「トンボの眼玉」
(本文)及び(略年譜)、ただしP166の詩の内容の説明では『「蜻蛉の眼玉」には「円るい円るい眼玉」という行りがあるが、示したように、漢字の「円」に「まア』という振仮名が施されている。』のように第一童謡集の詩の題「蜻蛉の眼玉」を用いている。

引用者註:上記の結果を見ると「白秋全集25 童謡集1 (1987年1月8日発 行)」(岩波書店)の発行以前は8冊のうち「とんぼの眼玉」としたのは3冊で、「トンボの眼玉」としたのが4冊、「蜻蛉の眼玉」が1冊である。「白秋全集25 童謡集1(1987年1月8日発行)」(岩波書店)の発行以後は5冊のうち「とんぼの眼玉」が3冊、「とんぼの目玉」が1冊、「トンボの眼玉」は今野真二著「北原白秋 言葉の魔術師」の1冊のみである。
M薮田義雄著「北原白秋と私」(昭和53年9月30日)(名著出版):「とんぼの眼玉」(本文P184 )
N坪田譲治編「赤い鳥傑作集」(昭和30年6月25日)(新潮社):「蜻蛉の眼玉」(與田準一 の解説)
O薮田義雄著「評伝 北原白秋」(昭和48年6月15日)(玉川大学出版部):「蜻蛉の眼玉」(本文)