資料その1 「白秋の風景」 文 久保節夫・写真 熊谷龍雄(西日本新聞社)
明治34年伝習館内で文学界を組織し友人とくじ引きで白を冠したペンネームをつけあい、白秋に当たり、詩歌の創作を始めたと思われる。
資料その2 「北原白秋 その青春と風土」 松永伍一(NHKブックス)
くじ引きで「白」を頭にしたペンネームをつくり、「白秋」「白雨」「白蝶」「白葉」「白月」「白川」ができた。
資料その3 「北原白秋・石川啄木集」 現代日本文学大系(筑摩書房)の北原白秋年譜
明治34年白秋の雅号を籤で引き当てた。明治37年:時に「薄愁」の雅号を用いた。また、上京後「射水」とも号した。
○「明星」誌の白百合、白萩、白梅の模倣?
資料その4 森崎和江著「トンカ・ジョンの旅立ち」(日本放送協会)p191〜192
熊本の第五高等中学では夏目漱石を中心に「紫溟吟社」を結成して彼の先輩が白仁白楊というペンネームで発表しているという由布熊次郎の情報から自分たちもまねて「白」の付いたペンネームを付けようと「北原白秋」「中島白雨」「由布白蝶」「立花白川」「藤木白葉」「桜庭白月」などがアミダくじで決まった。
資料その5 北原東代著「立ちあがる白秋」(燈影社)p105
「白の」下に一字を置く雅号を各々くじで引き、隆吉が「秋」をあて「白秋」と号するようになった旨の記述があり、『これは「明星」誌で鉄幹が新詩社の才気ある若い女性たちに、白百合(山川登美子)、白萩(鳳晶子)、白梅(増田雅子)などの愛称をつけていたことを模倣したものであろう。』と述べている。
○極めて無意味ー白秋の文章から
資料その6 白秋自身の文章:短歌文学全集・北原白秋篇(昭和11年11月20日発行・第一書房)に、”大正15年十月「都新聞」に連載の随筆「谷中の秋」のうちの一節”として、「雅号の由来」と題する記述の要約。
@雅号白秋は苦心して附けたものではない。中学三四年の頃文学好きの同級生の誰彼と回覧雑誌を出すことになって、そこでみんなで籤引にした。それで引当てたのが秋の字であった。頭に白をお揃いに附けると云う約束だったので、白秋となった。極めて無意味なものであった。それが北原と云う姓にしっくり合っているので、その儘にとおしてきたのである。
A上京当時若山繁君と同じ下宿にいて向うが牧水こちらが射水、もう一人が蘇水で、早稲田の三水などと喜んでいた事もあるし、泣菫流に薄愁などと、書き換えて見たりしたが、それもじき飽きが来て、また初めの白秋に還った。
B本来から言うと極めて枯淡な雅号で、さもほそぼそと消えも入りそうであるが、自分の初期の詩はその反対にあまりに絢爛であった。志賀直哉君がその向うを張って、南紅春などと戯れに自稱していたこともあったと思うが、南紅春の方がずっとわたくしの詩風を表していたかも知れぬ。
C北原白秋と云うわたくしの、この寂寥極まる姓や雅号が、不思議に世間に華やかに感じられているらしいのはどうしたことだろうと思う。つくずく考えるが、この四文字は晩年になって初めて名實相添うるものになるのではないか。そうした気もしていた。この頃になってその方に少しづつ近づいて来たから妙である。
D素秋となら言えよう。然し白秋と云う熟語は怪しい。わたくしは籤引で当てたのだから。だが五十一でなくなつた若目田氏顕松院白秋直方居士は、少くとも感覚の鋭い人だつたらしい。白を選んだのがさうである。
わたくしは驚いた。わたくしの前に第一世の白秋があらうとは。何だか他人でもないやうな気もした。
引用者註:同一の文章は「白秋全集 22 詩文評論8」(岩波書店)の『きょろろ鶯』の「剥製の栗鼠」の「谷中の秋」の「白秋の墓」にある(P70 )。「谷中の秋」は「都新聞」の大正十五年十月四、五、六、七日に発表。
資料その7 『白秋全集38 小篇4』の「アンケートへの回答」「私のペンネーム」P407
一 貴下の雅号(ペンネーム)の意味または由来。
二 ペンネームを御使用にならない時はその理由。
中学の四年生のころ二三の友人と籤引で雅号を極(き)めようといふので、取り当たったのが「秋」です。これに初めからの約束で「白」を冠らせたのです。皆が白づくめでした。白葉とか白月とか。で、「白秋」も別に意味はありません。ただ姓とふさはしいのでそのまゝ使用してゐます。(大正14年2月1日「東京」2巻2号)
引用者註:陰陽五行説の各要素には色だけではなく季節も当てはめられ青春、朱夏、白秋、玄冬とされている。また方位も当てはめられ春=東、夏=南、秋=西、冬=北とされる。北原白秋の雅号の由来はこのうちの「白秋」であるとの説があるが、資料その6と資料その7の白秋自身は”極めて無意味なものであった”、”別に意味はありません”と述べていることからそのこととは無関係である。また白秋は”北原と云う姓にしっくり合っている”とも言っているが、五行説によれば「白秋」に対応する方位は「西」ということになる。さらに志賀直哉の戯れの自稱「南紅春」からもわかるように、志賀もそのような位置づけで「白秋」を見ていないことがわかる。
資料その8 『白秋全集 別巻』の年譜P485
一九〇一(明治三四)年 一六歳
この年の冬、友人と「文学界」を起こし、回覧雑誌「蓬文」(未発見)を発行。この時友人たちと「白」の下に一字を置く雅号を定め、籤で「秋」の字を引き当てて「白秋」と号した。
○上京する前にも「薄愁」を使った
資料その9 久保節夫『北原白秋研究ノート T 補訂版』(啓隆社)
@[明治三十四年の冬に館の有志に呼びかけて、「文学界」を起し、廻覧雑誌『蓬文』を出し、詩歌の創作を競い没頭した]とあり、『この頃籤引きで「白」を頭にしたペンネームをつけあったという。』ことで、以下のペンネームと人物が紹介されている。
白秋(北原隆吉)
白雨(中島鎮夫) 四年生時自殺)
白蝶・白影(由布熊次郎) <俳人>
白葉(藤木藤吉) <KK古河組役員>
白月(桜庭純三) <不詳>
白川(立花親民) <海軍兵学校教官>
引用者註:「館」は伝習館のこと。
A『現存する白秋最初の作品は福岡日日新聞に次のように掲載されている。
明治35年6月3日 福岡日日新聞「端書文学」欄』
▲同好会席上探題
虹 北原白秋
此儘に空似消えむの我世ともかくてあれなの虹美しき
B『文庫』第二十四巻第六号(明治36年12月15日発行)に「戀の繪ぶみ 白秋」が、『文庫』第二十五巻第三号(明治37年2月1日発行)に「春湯雑詩 北原薄愁」が、『文庫』第二十五巻第四号(明治37年2月15日発行)に「續春湯雑詩 北原薄愁」が、『文庫』第二十五巻第六号(明治37年4月3日発行)に「林下の黙想 北原薄愁」がそれぞれ掲載されている。
引用者註:今野真二「北原白秋 言葉の魔術師」(岩波書店)には『明治三十七(一九〇四)年に早稲田大学英文科予科に入る。・・この頃、白秋は射水と号し、中林蘇水、若山牧水とともに、「早稲田の三水」と呼ばれた。明治三十八年になると・・この頃、「薄愁」の号を用いた。』とあるが、薄愁の号は上記のように上京前にすでに用いていた。
○籤引きというのはあとで作った白秋のいいわけ?
資料その10 三木卓『北原白秋』(筑摩書房)
余談になるが白秋という雅号についての、思いつきをここに書き留めてみたい。白秋には「雅号の由来」という文章があり、そこで、こういっている。
白秋と云う私の雅号の由来は、単に白紙です。それは白紙を細かく切って、その紙片の一つ一つに書いてあった中の一つに秋といふ字があった。それを引きあてたといふだけの事でした。その秋に友人一同の規約に従つて同じ白といふ字を頭に冠したのです 。
中学の三年頃のことでしたが文学少年の五六が回覧雑誌を出すいふので皆が雅号を籤引きで取り決める事になり、さうした趣向で簡単に済ましてしまひました。その中でこの白秋だけが残つてゐる訳で、たしかに白月といふのが今の倦鳥派の俳人松尾竹後君のことだつたと思ひます。
年譜によると、友人たちと回覧雑誌「蓬文」を発行したのが機縁になって、籤引きで白秋を引き当てたというのだが、それは明治三十四年冬のことである。「明星」を知ったのが前年の冬であり、『みだれ髪』の刊行は明治三十四年八月である。
九州の文学少年のところまで、東京の文学者の情報がどの程度とどいていたか。だから確言はできないのだが、この籤引きというのはあとで作った白秋のいいわけではないだろうか。この文章は、さりげないふうをよそおっているような気がする。
秋という字を隆吉は欲しかったのかもしれない。新詩社の寛をめぐる三人の女性は、それぞれ四人のあいだでのみ通用する愛称をもっていた。白百合が山川登美子、白梅が増田雅子、そして白萩が鳳晶子である。かれのところまで、その情報がとどいていたかもしれない。
<萩>の草冠をとればそれは<秋>である。隆吉は晶子の<追っかけ>の気分だったかもしれない。そう見ると、あとで薄愁になったり射水になったりしたのも、照れくさくて困ったせいとも見える。
引用者註:仮に「秋という字を隆吉は欲しかったのかもしれない」、「隆吉は晶子の<追っかけ>の気分だったかもしれない」としても
@資料その5および資料その6で示したように白秋の雅号についての文章やペンネームのアンケートは大正14年〜15年のもので、すでに名声を得ていた時期であり、「この籤引きというのはあとで作った白秋のいいわけではないだろうか」とあるが、そのようなことをする必要性は全くない。
A資料その9 久保節夫『北原白秋研究ノート T 補訂版』(啓隆社)によれば、白秋上京前の明治36年12月に北原白秋名で投稿した直後の明治37年2月に北原薄愁を使用していることから「あとで薄愁になったり射水になったりしたのも、照れくさくて困ったせいとも見える」というのは当たらない。
資料その11 紀田順一郎『ペンネームの由来辞典』(東京堂出版)
その年(中学四年生)、友人たちと「文学会」を結成、「逢文」という回覧雑誌を発行したが、筆名はそれぞれ「白」の下に一字を置く趣向とし、くじ引きで決定することにした。「白葉」や「白月」もあったが、彼が引いたのは「白秋」だった。
その後「薄愁」「射水」などのペンネームも使用したが、明治末より白秋に統一した。雅号として「紫烟草舎」も用いている。
○<白秋>の号は五行説と無関係
資料その12 上田信道 編著「名作童謡 北原白秋・・・100選」(春陽堂書店)
五行説は中国の古い思想ですが、ここでは四季に色を当てはめていきます。それが、青春・朱夏・白秋・玄冬(玄は黒)で、さらに季節の中間の土用に黄色を当てはめます。いまでも日常的に使われる<青春>という言葉は、この五行という考え方からきています。
ー<白秋>の号は五行説に由来する。青春の真っ盛りだというのに、もう人生の秋を感じているのはすごい。
そんなふうに得意げに吹聴する人もいます。
ところが、実はちがうのです。号の由来は、五行説とは関係ありません。<白秋>の号は、なんと同人たちのクジ引きで決まったといいます。というのは、まず、同人たちは全員が<白>の文字を使うことを申しあわせました。そして、もう一字をクジで決めていこう、というのです。トンカ・ジョンはたまたま<秋>の文字を引き当てただけなのでした。