北原白秋「この道」の新研究

北原白秋「この道」の解釈

雑誌「赤い鳥」こぼれ話/白秋の童謡論

 

 赤い鳥小鳥の真実

 

 


北海道風景です。主人公は少年ですー白秋の註より


「この道」がどこの辺りの道であるのかはわかっている


今、自分が今どこにいるかはおおむねわかっているはずである。場所も全然わからない道を少年がたった一人歩いているはずがないからである。


男の子が記憶の確かでない道を歩くのはどのような場合か? 少年が幼少時の追体験をする道は?


自立しようとする時期の少年が、冒険心もあって、


・一人で思いがけず遠いところまで来てしまったとき


・初めてたった一人で遠くの親戚の家に行こうとしたとき


・あるいは・・・


多くの人にある経験


見知らぬ道を歩いていた時、ふとよぎるかすかな記憶、実は幼いころに母と来た道だった。


金田一春彦著「童謡・唱歌の世界」(主婦の友社)より
「第三章 童謡ー世界に誇る文化財」の「二 童謡の美しさ」の「二 童謡の題材」で次のように述べている。


「この道」(北原白秋詞)、「あの子のおうち」(同)に歌われているような事がらは、子どもの誰もが経験することのある、嬉しい懐かしい題材で、まことに快い。

あの子のお家
あの子のお家はどんな家。
野茨が咲いたと言っていた、
仔馬もいるよと言っていた。

あの子のお家はどこいらか。
雲雀よ、空から見ておくれ、
よしきり、よしきり、行て見よよ。

あの子のお家はどのお家。
土手から土手へとのぼっても、
つばなやよもぎの風ばかり。

あの子のお家は葭の中、
向うの向うの沼のへり。
仔馬もゐるよと言っていた。
『與田準一編「からたちの花 ー北原白秋童謡集ー」(新潮文庫)』より

上 笙一郎編「日本童謡辞典」(東京堂出版)より


歌人で児童文学者の佐藤通雅は『白秋の童謡』(一九七九<昭和54>年・沖積舎)において、「北海道のロマンと夢に充ちた広大な風土を舞台にし、さまざまの風物を媒介にしながら回想の世界へと入って行く構成はたくみなものだ」と記している。


白秋は大正14年に北海道に訪れています。そして大正15年の雑誌「赤い鳥」に「この道」を発表しました。
白秋が札幌を訪れた際には次のようでした。
@アカシアの花は時期を過ぎていて咲いていなかった。
A時計台は街中にあって丘に立っていなかった。
B時計台は薄い緑色で白くなかった。

詳しくは『童謡「この道」詩の言葉』を御覧ください。


第一連
この道はいつか來た道、


ああ、 さうだよ、


あかしやの花が咲いてる。

「この道」を歩みつつ、「この道」は確か前にも来たことがあるぞ。花の香り、白い花、あかしやの花だ。
・アカシヤ並木がすぐに浮かぶが、一般的に考えるとアカシヤは繁殖力が強く、アカシヤの木が何本も連なっている場所はありうる。記憶をよみがえらせるのは群生していたからかもしれないとも考えられる。
・北海道のニセアカシヤは6月中・下旬に咲くことから、第一連によって詩の時期が明らかとなる。
・いつか(何時か)とは、過去の特定できない時のこと。


第二連
あの丘はいつか見た丘、


ああ、さうだよ、


ほら、白い時計臺だよ。

さらに歩をすすめて、向こうの丘も何となく見覚えがあるよ。ほらほら、白い時計臺だ。やっぱりいつか来た道だ。
・やや特徴を捉えにくいと思われる丘をいつか見た丘だと推測した後に、その証しとしてそれこそ見た瞬間に思い出せるほど特徴的な白い時計台を見て、「ほら、言った通りだろう」と推測どおりであることを示している。
・「ほら」は普通には相手の注意をうながすときに発する言葉。したがってもう一人の自分へ声かけをしたともとれるし、あたかも二人で「この道」を歩いているようにもとれる。
・一連から二連へと進むにつれていつか来た道の確信が深まっていく。
第三連 
 この道はいつか來た道、


ああ、 さうだよ、


母さんと馬車で行ったよ。

さらにまた歩をすすめながら、やはり「この道」はいつか来た道だ。あ、思い出した。そうだ母さんと馬車で行った道だ。
・「母さんと馬車で行った道」ということから、どのような目的でどこへ行くためだったかなども思い出したものと思われる。これまで漠然としていた「この道」が急速に懐かしさを伴っていろいろなことが蘇えった瞬間だ。母との思い出の道ということもあって第三連の「ああ、さうだよ」は他よりも感動的だ。
第四連
あの雲もいつか見た雲、


ああ、 さうだよ、


山査子の枝も垂れてる。


(第三連でかつて母さんと馬車で行った道だと認識した上で)立ち止まり、振り返りつつ歩を進めながら、遠くを見れば青空にぽっかりと浮かんだ白い雲、遠くかすんだ山並み、眼を転じれば路傍の山査子や木立、あるいは野原や小川や橋など。母さんに寄り添って馬車で行った時の「この道」から見た風景。懐かしく確かめながら、あの日あの時を回想し追憶を深める。


・万感胸に迫る・・・。


第四連の補足

・「あの雲いつか見た雲」の「」は、第二連の「あの丘はいつか見た丘」に連関し、「この道」から見える懐かしい光景を追加する役割をしている。同時に第三連によってこの道が母さんと馬車で行った道と認識できたことにより、今あそこに見える雲も母さんと馬車で行った時に見た雲のようだという意味の「あの雲」である。そして「ああそうだよ」のあとに「山査子の枝垂れてる」と続いているが、「あの雲」に重ねたこの「」は回想の連鎖ともいうべき働きをしている。ふと目を転じて母さんと馬車で行ったときのように山査子の枝も垂れていることを見出していて、このことはさらに山査子にとどまらずこの道から見える母さんと馬車で行ったときの思い出につながるさまざまな風物をも想起していることを暗示している。
・「雲」は千変万化、よほど奇怪な雲でなければいつか見た雲などと後々まで記憶に残るものではない。雲そのものが記憶に残るのではなく、記憶を呼び覚ました主たる体験やそのときの状況と連動して、あの時もあのように青空にぽっかりと雲が浮かんでいたね、あるいは真っ赤な夕焼雲だったねなどと思い出すのである。山査子の枝については、以下の文章を読むと、かつて母と馬車で行った「この道」で、垂れ下がった山査子の枝が馬あるいは馬車に触れるなどして、何らかのエピソードがあったのかもしれないなどと想像できる。
金坂吉晃著「白秋の北海道周遊 手控」(こまくさ会)より引用
「深川にはあとさき三日も滞在した白秋。この鄙びた農村の風情がいたく気に入ったようで、鬼川医師の案内や、また独りでよく附近を散策されたそうだ。・・まだ青い林檎の畑、丘のなだりいっぱいに、白いジュタン(ママ)を敷きつめたような除虫菊を見、幌馬車にのっては、その幌に触れるイタドリの虫くい葉の音に、白秋の旅情は顫えたのかもしれない。」

引用者註:白秋(40歳)が北海道の深川に滞在したときの話。「この道」はこの約一年後に作られた(詳しくは「北海道の北原白秋」のページを参照されたい)。

引用者註:白秋(40歳)が樺太で実際に見た山査子はクロミサンザシ又はエゾサンザシだと思われる(詳しくは『童謡「この道」詩の言葉』及び「北海道の北原白秋」のページを参照されたい)。クロミサンザシは北海道と長野県菅平に分布。海外ではサハリン、極東ロシアに分布。バラ科の落葉高木。3-10mの小高木で、北海道では5月下旬〜6月上旬に五弁の白い花を総状につける。
・そして四連における「いつか」はそれまでの漠然としていた「いつか」ではなく、「母さんと馬車で行った」ときの、よみがえった記憶の中の限定された「いつか」ということになる。
・一連、二連では「あかしや」、「丘」や「時計臺」のように部分的な風景から記憶をたどり、三連で「母さんと馬車で行った道」が明瞭になった。四連はそれらを受けてこの道に連なる全体を思い出し、追憶している。「あの雲」を象徴として青い空や山並みなど遠景の記憶、視点を転じて「山査子の枝」を象徴として路傍の木立、野原や小川などの近景、さらには馬車の軋みや蹄の音や吹き渡る風の感触さえも呼び戻し追憶している。
「あの雲」の場合の意味合い


「あの雲いつか見た雲」と自問し、「ああ そうだよ」と自答し「山査子の枝垂れてる」とした場合、一連、二連と追憶を重ね三連に至って「ああ、そうだよ、母さんと馬車で行った道」だと認識した経過、その追憶の深まりの過程と結果に関わりを持っていない表現となり、再び一連、二連のときの状態に後戻りし、四連においても、なお、部分的・断片的な記憶の一つとして位置づけられてしまうのではないか。すなわち「あの雲は」と始まってしまうと、各連の連続性や関連性までも喪失させてしまって詩全体が漫然となってしまうのではないか。

以上のように考えると、
四連は「あの雲」ではなく、初出のように「あの雲」とすべきである。すなわち第四連では「あの雲」「山査子の枝」と重ねることで、それまでの「この道」への追憶がさらに深められ広がりを持つことになり第一連から第四連を通じて見事な起承転結が形成されることになる。

「自問・自答」の詩から見えて来るもの

各連の「自問」は一般的な情景から構成されている。
第一連 「いつか来た道」
第二連 「いつか見た丘」
第三連 「いつか来た道」
第四連 「いつか見た雲」

一方、「ああ、さうだよ」に続く「自答」からは特徴的な情景が織り込まれている。
第一連 「あかしやの花が咲いてる」
第二連 「ほら 白い時計臺だよ」 
第三連 「母さんと馬車で行ったよ」
第四連 「山査子の枝も垂れてる」

山査子の枝はもっと注目されるべき
上述のように「自答」の部分に決定的な言葉がある。そういう観点で見ると第四連の「山査子の枝も垂れてる」に込められた意味にもっと注目したい。

註:すでに述べたように自問・自答といっても第四連はそれまでとややニュアンスを異にする。

白の連鎖のイメージ?
あかしやの白い花、白い時計台、白い雲、(アカシヤより山査子の方が開花時期がやや早そうだが、もし咲いていたとすれば)山査子の枝の白い花

『川本三郎「白秋望景」(新書館)』より
『・・日本には明治になって入ってきた「あかしや」と「時計台」が、ハイカラな雰囲気を生んでいる。「馬車」も、どこか西洋の馬車を感じさせる。全体に淡い。少年が、母親と一緒に見た風景を思い出しているという距離感が、淡さを生んでいる。この少年はいまは母親と別れているのか。山田耕筰が少年時代、自営館に入るために母親と別れたように。
「道」から「丘」「白い時計台」へと現在の視点がゆっくりと高いところへ移動し、三連に来て、突然、「母さんと馬車で行ったよ」と過去が思い出される。「からたちの花」の五連「からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ」と同じように起承転結でいえば転になる。
そして最後に、一気に「あの雲」と視点が空の高みに向けられる。それまでの少年の物語が、ここで普遍性へと広がる。』

『植山俊宏「風呂で読む 童謡」(世界思想社)』より引用
『この歌は、全編回想をベースにしている。「この道」、「あの丘」、「あの雲」という心理的に強く響く対象を提示しては、それにまつわる思い出と現在の風景を重ねる。(途中略)第一連では、「あかしやの花」。間近にふと目に付いた白い可憐な花に思い出を呼び覚ます。第二連では、「白い時計台」。一転遠景が出てくる。第三連では、「お母さまと馬車で行った」記憶。ここだけは、風景ではなく、母と連れ立った記憶、それも母の匂いや、正装の凛々しさ、馬車の揺れなどが思い起こされる。斬新な展開。最終第四連では、視線を高い位置へ送る。そこでとらえた「雲」とともに、頭上に下がっている「山査子の枝」もまた、幼い記憶に重なる。(後略)』
引用者註:この場合の「山査子」は少年の視点から見て、樹高のやや高い様子を想定しているようである。焦点をはるか彼方の雲から頭上の枝に移動させていて、視線を彼方のままにして終わりということではなく、近くの頭上の山査子の存在をしっかりととらえ、位置付けている。

星野辰之「歌碑を訪ねて 日本のうた 唱歌ものがたり」(新風舎)P221 ~222より引用
この曲は一、二番を一連に、三、四番を一連として、二連の曲と考えて歌えば良いのではないだろうか。
そうすると、第一連は「あかしやの花が咲いている」ので晩春か初夏。第二連では「さんざしの枝もたれてる」(山査子の赤い実がたわわに実っている)からもちろん秋。
 一
この道はいつかきた道
ああ、そうだよ、あの時のように
あかしやの花が咲いている それにあの丘の上には白い時計台が見える
 二
この道はいつかきた道
ああ、そうだよ、お母さまと馬車で通った ときのように
秋の(鰯)雲も浮いていて 山査子の赤い 実がたわわに稔(ママ)っている
右のように解釈して歌うと良いのではないだろうか。
一、は昔歩いた道を静かに懐かしく眺めている情景が思い浮かぶし、
二、はお母さまと楽しく語らいながら馬車で次々に景色が移って行く躍動感を感じる詞であることが理解できる。
それに、一、はあかしやの花と時計台の白、二、白い雲と山査子の赤い実というように北原白秋の色彩感覚の優れた詞でもある。

引用者註:一、二連と三、四連を分離しての解釈は多くの混乱が待ち受ける。
上述のように一・二連は晩春か初夏、三・四連は秋というように季節を分離して解釈している。この文献以外でも”歌詞には、北原白秋が晩年に旅行した北海道(1-2番)と、母の実家である熊本県南関町から柳川まで(3-4番)の道の情景が歌い込まれている。”との解釈が見受けられる。

一連と二連にはあかしやの花や時計台の言葉から北海道を思わせまた季節も想像することができるが、三連と四連には場所や季節を特定できるような言葉がなく、ただ三連に幼少期体験を思わせる部分があるだけである。そのために一、二連と三、四連を都合よく分離して、場所や季節を変えて解釈しようとしても無理がある。仮にそのような前提で少し考えを進めれば、直ちに不自然さや混乱が発生しつじつま合わせが必要になったり全体を通すと珍妙な解釈となってしまって、それらはみんな前提に跳ね返ってくることに気づくであろう。
白秋は「この道」について”北海道風景であり主人公は少年”と註釈をしている。その一方白秋は人生において北海道で暮らしたことがない。すなわちこの詩はそもそも白秋の実体験に基づいた詩ではないことも注意しておかなければならない。

引用者註:星野辰之「歌碑を訪ねて 日本のうた 唱歌ものがたり」(新風舎)にはP221 ~228にわたって「この道」についての記述がある。上に引用した他に印象に残った点を以下に抜き書きする。

〇「母さん」では主人公の性別は不明、またどちらとも判別ができないが、「お母さま」は少女、それも美しく着飾ったお嬢様のイメージである。
言葉の響きは「母さん」よりも「お母さま」の響きの方がずっと明るい。それに「母さん」ではこの曲で二番目に高い音が、長音の「ん」になってしまって、大変歌いにくい。
〇私は先にも述べたが、三、四番を一連と考えて「も」が良いように思う。
「お母さまと馬車で通ったとき『あの雲の様子も秋の雲で・・・』」との解釈が妥当なのではないだろうか。(途中略)そこで私の手元にある曲集を調べてみる。
「あの雲も」となっているのが「日本リード曲集」(清水修編 音楽の友社)以下十冊
「あの雲は」となっているのが「日本叙情歌集」(長田暁二編 ドレミ楽譜)以下三冊
「日本のうたふるさとのうた 100曲」(講談社)のように「あの雲は」(あの雲も)と二種類が記されているものもあった。
〇(引用者註:初出「赤い鳥」大正十五年 八月号について)二ページにわたって詞があり、左上にはあかしやらしい木の下に麦わら帽子をかぶった少年が立っていて、遥か彼方に続いている道の向こうの木の茂みの上に時計台が立っていて、雲もふんわりと浮いている。
〇山田耕筰は「母さん」を「お母さま」にして歌いやすく、品の良い曲に仕上げた。しかしその後、北原白秋は「あの雲も」の歌詞の出だしを統一して童謡集「月と胡桃」のなかで「あの雲は」にした。推敲をしたつもりが、単調になってしまって、日本語の「は、も」の味、隠し味が消えてしまったのは残念である。

「この道」〜藤田圭雄・阪田寛夫・上 笙一郎・金田一春彦・由紀さおり・萩原昌好


藤田圭雄編「白秋愛唱歌集」によれば『一九二五年八月七日、白秋は吉植庄亮と二人で、鉄道省の樺太旅行談の一員として高麗丸で横浜っを出港、樺太・北海道の各地を旅行した。あかしやの咲く道、白い時計台の丘などはそのときの札幌の印象であろう。』と解説している。


(引用者註)白秋が札幌を訪れた時には「あかしやは咲いていなかった」、「時計台は白くなかった」、「時計台は丘にはなかった」などが事実だが、詞を白秋の実体験に基づいたものと受け止めている。


・藤田圭雄著「日本童謡史 T」では『・・・白秋の感性と、技巧を、いっぱいに発揮したのが「この道」だ。山田耕筰の名曲を待つまでもなく、この童謡は近代童謡の一時期を画するものといえる。・・・「からたちの花」や「ペチカ」でもそうであるが、この期の白秋の童謡の良さは、洗練されたロマンティズムとでもいうか、その少し前に流行した、いわゆる文化生活でない、もっと落着いた、豊かな情緒が生きている。「母さん(お母さま)と馬車で行ったよ」といった詩句に象徴されるような気分がある。それを生かした山田耕筰の曲も美しい。』と解説している。


・「白秋全集 20」の月報14で阪田寛夫は『「この道」のような、気恥かしいまでに甘美な過ぎしよき日々をうたい上げた白秋をーその印象には山田耕筰の曲の影響も強いのだがー私はバタくさい詩人だと長い間思いこんでいた。』と述べている。


・上 笙一郎編「日本童謡辞典」より


『白秋の子どもに対しての自註に拠って読んで行けば、この童謡は、自動車とともにまだ馬車も走っていた近代の中期、洋服・夏帽子に革靴を穿いた新中間層の男の子が、着物姿の<母ちゃん>や<母さん>ではなくて洋装の<お母さま>と一緒に、植民地的近代都市の内外を旅しての印象をうたったものと受け取れる。形態は自問自答体で、「この道はいつか来た道」と問い、「ああ、そうだよ」と自答し、その証拠として曾て見た「あかしやの花」、や「白い時計台」を挙げるという方法を採っている。そして、その証拠として列挙された事物はというと、すべて北海道を暗示し象徴するエキゾチックなものばかりなのである。すなわち、温帯=日本の在来植物ではなくて寒帯植物で欧米から来て根づいた「あかしや」(植物学的にはニセアカシア)と「山査子」、札幌の北1条西2丁目にある「白い時計台」、および荷物ではなくて人を運ぶものである「馬車」。』と解説している。


引用者註:上記の文章の前に、”初出は「母さんと馬車で行ったよ」だったのが、耕作が歌曲        効果のために「母さん」を「お母さま」と変え、白秋もそれで宣しと認めたからだ。”という趣旨のことを述べている。なお、下線部はどうしてそのようなことが言えるのだろうか。 童謡「この道」と札幌時計台のページに示したように『この道 日響楽譜NO.106』 (昭和2年11月)の表紙絵は着物姿の女性が描かれている。 

金田一春彦 「童謡・唱歌の世界」(主婦の友社)
「この道」(北原白秋詞)、「あの子のおうち」(同)に歌われているような事がらは、子どもの誰もが経験することのある、嬉しい懐かしい題材で、まことに快い。(P101)
同じ白秋作詞のもので「この道」は歌詞がすばらしいのに比べて曲はそれほどと思ったが、「あの子のおうち」や「風」はすばらしいと思った。(P202 )
「由紀さおり・安田祥子 こころの音楽教科書 あしたへ贈る歌」 小学館
『からたちの花』と並ぶ、白秋さん・耕筰さんコンビの名曲です。ソロ活動だけをつづけていたら、歌わなかった曲かも。姉と二人のコンサートをするようになり、私のレパートリーにも加わったのですが、こういった歌曲に近い歌を歌っている自分がちょっと意外で、どこか心豊かな気分でもあります。(途中省略)札幌が舞台でしょうか。白い時計台や、やはり真っ白な”あかしや(ニセアカシヤ)”の花。無駄のない歌詞と旋律が、余韻たっぷりの追憶を歌い上げています。これも大正の終わりの歌なんですね。新しさと抒情のかがやきが、80年たっても色あせません。(由紀さおり)
萩原昌好編「日本語で味わう名詩入門7 北原白秋」 あすなろ書房
永遠のなつかしさ 
一読して、何ともいえないやるせない、なつかしい気持ちにとらわれませんか。
その理由は、題名にあるようにも思います。
「この道」といわれると、自分がかつて歩いてきた道を創造(ママ)します。読み進むうち、いつのまにか歩いてきた道のさまざまな記憶と重なってくるような思いがします。
この詩は、白秋が北海道の札幌をおとずれた際に着想を得た、といわれていますが、どこか国籍不明な香りもします。ともあれ、人それぞれの郷愁を強くかりたてる作品であることはまちがいありません。

「からたちの花」について
私は私としての幼児の追憶や小田原水之尾道で見た必然的なからたちの花の縁由がある

「この道」について


思ひ出」の系統に旅中から得た北海道風景を織ったものである




『北原白秋全集20 詩文評論6』(岩波書店)より


童謡・兒童自由詩・教育 論集『緑の触覚』 昭和4年3月3日 改造社刊


芸術・自由・教育


「踏襲問題 百田宗治君に」より抜粋

〇私の「からたちの花」とは第1に内容が全然違っている。私は私としての幼児の追憶や小田原水之尾道で見た必然的なからたちの花の縁由がある。「からたちの花」は大正13年5月13日の作である。妻は手記に「大変静かなよい詩で珍しい行き方、矢張りその花に即してゐるからであらう。」と書いてゐる。形式の新味は短歌長歌ら或は詩の五七の基調を主として取ったからである。(各二行目で三三三四として一音多いが)
童謡で五七調を試みて、今までにない幽韻を出そうとしたのは私が初めてゞある。君のした自由律ではない。可なり推敲に推敲した、さうして自然とその末に落ち着いた処の踏襲であった。

〇あの童謡はたゞ、単なる歌謡よりも詩の気韻を持ったものだが、自由律ではない。私としての一の新定律で、歌うやうにも細かに整へてある。

〇「この道」が何でまたその内容と形式とで、君の作に似てゐよう。あれはやはり「思ひ出」の系統に旅中から得た北海道風景を織ったものである。形式は五七二行に「あゝそうだよ」を挿入して一聯をなした。
私の新定律の一つである。

「思い出」の幻想風の追憶は系統的に今の童謡界に何かの根ざしを持ってゐるやうに思ふ。私は折々私を非難する人の作にもその事実を見た。その後の私の童謡に於ける種々雑多の内容形式も相当に浸潤し、またしつゝあるのではないか。(「時事新報」昭和三年五月三十日ー六月六日)

上記の通り「からたちの花」については、「幼児の追憶や小田原水之尾道で見た必然的なからたちの花の縁由がある。」と述べている。すなわち幼児期におけるからたちの花との縁由に基づいた作品であることがわかる。

引用者註:縁由→ つながりや関係があること。ゆかり、縁故、動機。

一方「この道」の『「思ひ出」の系統』という白秋の文章の意味はどのように理解したらよいだろうか。

「幼児を追憶したものにはそのまゝに童謡となるべき題材」であるという白秋26歳の時の詩集「思ひ出」はすべて十九歳で出京する前の故郷での体験を題材にした作品である。
作品「この道」は「幼児期を追憶したもの」という同系統のテーマであるということで『「思ひ出」の系統』に属しているものと解すことができる。与田準一は「母の里の”道の手”における子どものころの思い出がその発想になった」と述べている。ただしテーマの背景に織り込まれたものは白秋四十歳のときに見聞した北海道風景である。しかし実際に見聞きし体験したありのままではなく心象風景としてである。なぜなら、訪れた時にはアカシアの花は咲いていなくて、白ではなく薄緑色の時計台が丘ではなく町中にあったーというのが事実である。
以上のことから「この道」は白秋四十歳のときの北海道旅行の体験をもとに、ただし実際の体験とは異なる心象風景が織り込まれた「主人公の少年が幼児期における母との思い出を追憶した」作品といえる。


引用者註:心象風景→ 体験や感情、感覚によって生み出される想像上の風景。心の中に思い描いた景色。現実にはありえない風景であることもある。

藤田圭雄「日本童謡史T」あかね書房(昭和四十六年十月十五日)より引用
この百田宗治の「お葬い」という童謡は、大正十三年の作品で、

長い町だつたよ。
砂の白い道だつたよ。

町かどに
古い鐘が鳴つてゐたよ。
ーわたしたちの
くろい馬車が通つて行つたよ。

ーわたしたちの
くろい馬車が通つて行つたよ。
ふかい櫓さきの
かげが落ちてゐたよ。

夾竹桃の花が
咲いてゐたよ。

というのである。
夾竹桃の花が咲いてゐたよ。
からたちの花が咲いたよ
なるほどその語調は似てはいる。百田がその類似性についてどんないい方をしているのかは知らないが、しかしこれだけのことで、真似呼ばわりされたのでは白秋がおこるのも当然だ。歌としての完成度ではほとんど問題にならぬほど白秋の方が上だ。
藤田圭雄「日本童謡史U」あかね書房(昭和五十九年七月五日)より引用
百田宗治は、明治二十六年一月二十五日大阪にうまれた。育英第一高小卒。白鳥省吾、福田正夫らと、民衆詩人として世に出た。生活綴方運動にも尽力。少国民詩集『歴史』(昭和十七年有光社)がある。昭和三十年十二月十二日死去。
百田は、国民学校時代の文部省教科書編輯委員で、昭和十七年には、日本少国民文化協会で『少国民文化』の編輯の中心だった。
引用者註:百田宗治詩・草川信曲「どこかで春が」がよく知られている。

再び「この道」と”詩集「思ひ出」の系統”について
@白秋の言葉から背景は北海道風景ということになる。
A詩集「思ひ出」は白秋二十六歳の作品で、白秋は後に[その内容の主体とするところは、一種の郷土文学としての色彩と、幼年少年期に亘る追憶の景と情との交響である。而してその追憶詩のあるものは今日のわたくしの童謡の本源を成すものだとも言えよう。で、此の『思ひ出』は官能感覚開放運動の先声といふ点よりみても、わたくしにはなほさら意義深い詩集であった。](「白秋全集」第二巻後記)昭和四年十一月)と述べている。
B一方において白秋の童謡作品のうち、作品の全てが故郷柳川や第二の故郷南関での幼少期の追憶に直接つながるものばかりでないことも言うまでもない。
C白秋四十一歳の作品「この道」はその一つである。 “主人公の少年の幼年期への追憶”であるという「この道」の主題が、詩集「思ひ出」の「幼年少年期に亘る追憶の景と情との交響である」と同じ範疇に属していることから白秋は『「思ひ出」の系統』という言葉を用いたのではないかと思われる。
『「思ひ出」の系統』については『雑誌「赤い鳥」こぼれ話/白秋の童謡論』のページも参照してください。
D幼少期の追憶の詩を作品化するときに自身の過去を思い起こすことは普通にあり得ることで、柳川から南関への道の思い出が発想になったとしても特別なことではない。しかし発想の元になったことと完成した作品とはまた別である。
E『「思ひ出」の系統に旅中から得た北海道風景を織ったものである』の解釈や、また与田準一の「母の里の“道の手”における子どものころの思い出がその発想になった」という証言を的確にとらえることが大切であろう。



”深読み”は迷惑


「由紀さおり・安田祥子 こころの音楽教科書 あしたへ贈る歌」 小学館(83ページ)より引用


しゃぼん玉


これも野口雨情さんの名作。短くわかりやすい言葉の連なりの中に、誰もが経験した子どもの遊びの世界が、実に生き生きと歌われています。(途中省略)最近この歌にかぎらず、童謡の歌詞を”深読み”する傾向が出てきました。たとえば、「生まれてすぐに消えたしゃぼん玉は、雨情の実子のエピソードだ」とか、「そうではなく、”間引き”される命を象徴しているのだ」などという解釈です。作者自身が語っているならともかく、私にとってこのたぐいの解釈は迷惑なだけ。聴く方がそれぞれにイメージをふくらませるよう、無心で歌いたいのです。雨情さんも、きっとうなずいてくださると思うのですが。(由紀さおり)




藤原義江著「藤原義江 流転七十五年 オペラと恋の半生」(1998年8月25日 日本図書センター)より引用


(175ページ )天才ピアニスト 近藤柏次郎


ある時は、柏ちゃんが『サンタルチア』の前奏をプログラムどおり弾き出したにもかかわらず、僕は『オーソレミオ』を唱い出し、彼は僕が気がつくだろうと、僕は気がついて彼が僕について弾きかえしてくれるだろうと混乱し、あるいは『からたちの花』を唱い出して、”からたちの花がさいたよ”から”ああそうだよ”と同じ山田耕筰の『この道』に横すべりしたり、飛び出したり、出遅れたり、ぬかしたり、それも声の調子のよい時にそれが多い。柏ちゃんはそのつど、それを処理してくれた。


(234ページ)テノールバカ


「からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ」


これは北原白秋の詩で山田耕筰作曲の名作の第一節である。


「この道はいつかきた道 ああそうだよ」


これも北原白秋で曲も山田耕筰の有名な「この道」の歌い出しの一節である。


ある時、僕は「からたちの花が咲いたよ ああそうだよ」とみごとに間違えて、ていねいにもそのまま『からたちの花』ではなく『この道』を歌ってのけてしまった、という有名な話がある。僕はこれをあくまでそんなバカげたことが、と否定するが、これを聞いた人があまりにも多いのでどうにもならない。しかし、もし間違えても、それは実に無理のないなめらかな、自然な間違いだと僕は思っているくらい、メロディが流れているのである。


僕はよく文句を忘れたり間違えたりするのはもう珍しいことではないが、どうしてもこればかりはなおらない。何十年と歌っている『からたちの花』や『出船の港』すら、今日まだ間違えて歌ってしまうことがよくあるのだから、オペラの中などでは一晩のうちに何度間違って歌っているかしれたものではない。



数ある作品の中でなぜか「この道」が「歌曲の夕」のプログラムに入っていない。

薮田義雄「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)より引用


昭和十年十一月十四日、生誕満五十年を記念して、(日比谷公会堂)「北原白秋作詩による歌曲の夕」が日比谷公会堂に開催された。山田耕筰の斡旋により楽壇を挙げての豪華な祭典であった。


引用者註:


「北原白秋作詩による歌曲の夕」プログラム順に曲名のみ記す(同じ曲名が重複している)。なお、藤原義江は「からたちの花」と「待ちぼうけ」を独唱している。


白珠・山の月夜・春の夜の追憶・こんこん小山・上海特急・六騎・鐘が鳴ります・牡丹・仔馬の道ぐさ・泊り舟・満州の春・雀追ひ・蟹味噌・月夜の風・赤い夕陽に・かやの木山・芭蕉・ペチカ・やなぎのわた・牡丹・野燒の頃・曼珠沙華・祭物日に・もの・馬鈴薯むき・おろかしく・見るとなく・砂山・軍馬・城ヶ島の雨・かきのこはれ・アイヤンの歌・氣まぐれ・降りてくれるな・城ヶ島の雨・くぬぎ・秩父の宮さま・海の向う・阿蘭陀船・からたちの花・待ちぼうけ・クリスマスが來ますわい・象の子・梅雨の晴れ間・虎の烟草・日本國民歌・ほういほうい・JOAK・あわて床屋・馬賈り・かなかな・砂山・雀をどり・露西亜人形の歌・ちんちん千鳥・雀どこ行く・城ヶ島の雨・松島音頭・鐘が鳴ります・垣のこはれ・輝く朝・かぐや姫


引用者註:金田一春彦「童謡・唱歌の世界」(主婦の友社)より引用                   『私が大学の二年生になった時である。「北原白秋の詩を歌う夕べ」というのが開かれ、私は父から切符を譲り受けて、招待席に座った。プログラムを見ると、山田耕筰と小松耕輔が世話役とある。(途中省略)その日のプログラムには当日の一流の歌手の名を網羅していたが、その歌う作曲者の条を見ると、そのころ知られていた、ほとんどすべての作曲家の名が並んでいた。山田の曲が一番多いのは当然であるが、小松耕輔、中山晋平、梁田貞、弘田竜太郎、成田為三、草川信、藤井清水、宮原禎次・・・。ところがそこに、私の師、本居長世の名がないのである。(後略)』という記述がある。


引用者註:                                                      薮田義雄「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)によれば、作曲家の名は、プログラム順に大中寅二、山田耕筰、小松耕輔、細谷一郎、橋本國彦、宮原禎次、梁田貞、乗松昭博、中山晋平、近衛秀麿である。なお、催しの名称は薮田義雄「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)の年譜には、生誕五十年記念「白秋を歌う夕」、「白秋全集 別巻」(岩波書店)の年譜では、白秋生誕50年を記念する「白秋を歌ふ夕」とある。「白秋全集38 小篇4」(岩波書店)によれば、この会の発起人は、石井柏亭・萩原朔太郎・穂積忠・折口信夫・大木惇夫・与謝野晶子・室生犀星・山田耕筰・山本実彦・山本鼎・小松耕輔・斎藤茂吉・北原鉄雄・島崎藤村・島中雄作である。



北原白秋
その道 この道(童謡) (コドモノクニ12巻8号 昭和8年7月1日発行)

その道、この道、どちらが早い、
まはりっこしましょか、そちらとこちら。
  『かけっこぢやないの。』
  『かけたらだめよ。』

その道 行つたら、 おうちのまへよ、
この道 行つても、おんなじことよ。
  『さよなら、あばよ。』
  『さよなら、あばよ。』

その道、あの道、しろいな野ばら、
ちひさな弟、ランドにシャッポ。
  『みちぐさしずに。』
  『かけてもだめよ。』

この道、あぜみち、ぎぼしの花よ、
わたしは姉さん、日傘にカバン。
  『ほう、ほう、ほうい。』
  『ほう、ほう、ほうい。』

その道、この道、そちらとこちら、
どちらもよい道、おひより、ひより。
  『お母さん、ただいま。』
  『お母さん、ただいま。』

雑誌「赤い鳥」の北原白秋の主な掲載作品


第一巻第一號(大正7年7月號):りすりす小栗鼠、雉ぐるま


第一巻第三號(大正7年9月號):雨


第一巻第四號(大正7年10月號):お祭、赤い鳥小鳥


第二巻第四號(大正8年4月號):あわて床屋


第三巻第四號(大正8年10月號):兎の電報


第四巻第二號(大正9年2月號):かやの実


第六巻第一號(大正10年1月號):ちんちん千鳥


第十三巻第一號(大正13年7月號):からたちの花


第十五巻第一號(大正14年7月號):酸模の咲くころ


第十七巻第二號(大正15年8月號):この道





引用者註:大正7年7月号から昭和11年10月号までおよそ三百数十編の作品がある。