北原白秋「この道」の新研究

童謡「この道」と札幌時計台


北原白秋「この道」の新研究の特徴と内容

これまでの研究を参考に できるだけ客観的に 新しい視点で→再考する。


「この道」と札幌時計台

北海道での白秋の実際の体験と「この道」の挿絵から白秋の札幌時計台への意識を探る。「時計台の鐘」の歌・小説のなかの時計台・時計台の呼称の変遷など。

二つの歌詞

白秋自身による初出の詩の第四連「あの雲も」の「あの雲は」への変更の経緯とその後。歌集や教科書にはどちらの歌詞が掲載されているか現状を探る。

詩の言葉の背景

詩の中の主要な言葉「あかしやの花」・「丘」・「白い時計台」・「馬車」・「雲」・「山査子」と白秋の樺太、北海道旅行との関連を探る。また、白秋の心象風景について考える。

詩の解釈

童謡「この道」の解釈を起承転結の観点で考える。また、「あの雲も」と「あの雲は」の意味合いの違いについても考える。

詩の発想の原点

「この道」の原点は母の里のその土地で”道の手”と呼ばれる片岨の道であることや「母」への思いを紹介する。

その他
白秋の雅号の由来・「酸模の咲くころ」の酸模について・北海道の白秋・白秋の童謡論/とんぼの眼玉/白い蝙蝠傘・雑誌「赤い鳥」・童謡「赤い鳥小鳥」・歌集「桐の花」・詩「たんぽぽ」・郷里柳河に帰りてうたへる歌

白秋の雅号の由来




    「この道が」発表された「赤い鳥」(大正十五年八月号)


    表紙絵はC水良雄


白秋が北海道に滞在中「時計台を訪ねていない」→時計台は公共施設だった。

・時計台の前身は札幌農学校の演武場である。明治三十六年農学校の移転に伴い演武場は札幌区が借り受け。明治三十九年札幌区に移管、現在地に移転。この頃から時計台と呼ばれるようになった。

・時計台に明治四十四年に北海道教育会が附属図書館が開設され、大正七年には札幌区教育会が引き継いだ。大正十一年に札幌市教育会附属図書館になった。

・フレップ・トリップには大正十四年八月七日横浜出港後、八月十日早朝小樽に停泊した際に乗客が札幌に出かけて行った様子が書かれている。

―定山渓はいい温泉だった、札幌はあかしやがいい、大通りの花畑が美しかった、大学や植物園の楡がいい、月寒の牧場は雄大で羊がいて、野幌の原始林が見え、夕日の頃、羊を追って帰る頃がまるで日本ではない。―

以上のように時計台の話は出てこない。大正14年当時時計台は公共施設であり、観光施設ではなかった。なお、白秋は「桐の花」の推敲のために札幌には出掛けずに小樽に留まった。

白秋と時計台との関わり

・樺太旅行の帰途、札幌での宿泊先は時計台(北一条西二丁目)と通り一つ隔てた停車場通りの山形屋(北二条西四丁目)であり(直線距離で500メートルほど)、鐘の音は十分聞こえる範囲である。また、自動車で移動していたので車内から時計台を見た可能性は高いと思われる。月寒牧場へは二度行っており、そのうちの一度は北海道庁の自動車で行ったということなので、同行の道庁職員からの説明を受けた可能性もあったかも知れない。

「時計台は丘に立っていない。」→時計台付近は平坦な土地である。

・札幌の中心部は豊平川の扇状地で平坦な土地である。ちなみに札幌駅は海抜17メートル、時計台は21メートル、北一条通りは西一丁目で20メートル、西20丁目で18メートルである。なお、羊ヶ丘展望台は136メートルである。

札幌郊外を題材にした「落葉」(童謡:大正14年11月発表)や「トラクタア」(童謡:昭和2年5月発表)にも「丘」が使われている。「丘」という言葉は白秋の”ノートに記されていた”か”頭に残っていた”可能性がある。

・白秋が札幌を訪ねた3年前の大正11年に札幌市制になったときの人口は13万人であった。大正時代の写真や絵ハガキで時計台を見ると、周辺にはほぼ同じような高さの建物がかなり密集し、少し離れた所では煙を吐く煙突があったりして、歌詞にある丘の白い時計台とは様相の異なる場所に時計台を確認することができる。


大正13年〜昭和元年頃の時計台(時計台まつり実行委員会発行「札幌時計台創建一三〇周年記念誌 時計台ものがたり」(中西出版)より


白秋が北海道を訪れたとき(大正14年)「時計台」は白くなかった。→薄い緑色だった。

時計台の外壁等塗装の経緯

明治11年:演武場開場・下見板は「明るい灰色」、柱・付胴差・窓額縁は「茶色」※0

明治14年:時計塔を設置

明治39年:現在地へ移転、修理工事(階段の移動や煙突の除去)

明治40年:柾葺から亜鉛鍍鉄板葺の屋根に変更(以降、亜鉛鍍鉄板葺)※1

明治44年:6月〜7月「ベージュ色」に塗替え、柱・付胴差・窓額縁は「茶色」※2

大正13年:柱・付胴差・窓額縁を含めて「薄緑色」一色に塗替え(以降、色は一色)、修理工事

昭和8年:「薄緑色」を再塗装、修理工事(屋根の葺替えなど)※2-2

昭和24年:「緑色」に塗替え、修理工事(屋根の葺替え)※2-3

昭和28年:「淡アイボリー」に塗替え。屋根赤色塗装※3

昭和33年:「明るいクリーム色」に塗替え※4

昭和34年:「演武場」の額の写し復元

昭和36年:札幌市の有形文化財指定

昭和38年:「明るいクリーム色」に塗替え※5

昭和39年:屋根の葺替え、外壁のクリーニング※5-2

昭和42年:「ライト・グレー」に塗替え、復元改修工事(屋根は部分的補修)※6

昭和45年:6月7日 国の重要文化財指定

昭和51年:外装塗替え実施・「ライト・グレー」系統と思われる。修理工事(屋根半分の葺替え)※7

昭和53年:この年以降、毎年塗装補修を実施※8

平成10年:外壁 マンセル記号「7.5Y7.5/2」・屋根 マンセル記号2.5YR3/6、全面塗装、屋根葺替え※9

平成30年:外壁 マンセル記号「7.5Y7.5/2」・屋根 マンセル記号2.5YR3/6 全面塗装※9-2


引用者注:

※0:時計台は全面的に灰色を塗り、その乾燥を待って柱・付胴差・窓額縁などに茶色を塗った。

※1:札幌郵便局の使用に当たって実施された可能性が高いものと思われる(5月10日:札幌大火により郵便局焼失。札幌郵便局は明治40年から明治43年まで演武場を使用した)。

・「明治39年に現在地への移転時、又はその少し後に創建時の柾葺から亜鉛鍍金鉄板葺に変えた」(さっぽろ文庫)

・「明治末年頃に屋根を柾葺(まさぶき=北海道における板葺の通称)から鉄板葺に変更」(旧札幌農学校演武場(時計台)の保存修理について 松本 優(文化財建造物保存技術協 会)

※2:最初に灰色を塗った時とは異なり、柱・付胴差・窓額縁にはベージュを塗らずに茶色だけを塗った。つまり下見板と柱・付胴差・窓額縁とを完全に塗り分けた。

当時の新聞記事から北海道教育会の使用(明治44年7月5日)に当たって実施された可能性が高いものと思われる。

・「明治44年5月26日:北海タイムス「時計臺附属建物入札」;『札幌區役所に於ては昨日時計臺の附属建物の入札を執行したるに七百二十八円にて村木仁助氏に落札したりと』

・「明治44年6月23日:北海タイムス「時計臺家屋修理」;『過般來札幌區役所に於ては大時計家屋の修理を為し居れるが該費用は原状回復の失費代償の意味を以って郵便局より無償譲渡を受けし建増家屋の買却代金を充用せるものなるが内部を完全に修理するには幾分不足を生ずる故之等は一部教育會に於て為す事となれる由にてペンキ塗りは目下豊平館の塗替を受負居る當區森廣氏引受近々着手の筈にて来月十日頃までには全部完成の見込みなりと』
※2-2:「昭和8年11月5日:北海タイムス「時計台の落成式」;『(前略)改築費は六千五百圓で市から四千圓、教育會から二千五百圓此の修築保存費として市内小學校、中等學校、北大職員、札幌農學校卒業生、各小學校保護者會、中等學校父兄會、市有志から四千餘圓の寄附金であり修築費二千五圓を控除した金額で図書館として内部設備其他を完了したものである。

※2-3:「昭和25年2月1日:北海道新聞;『四月から開館の予定 市立図書館になる時計台ー”市立図書館はいつできるか”について市民の深い関心が注がれているー市では昨年九月工費一百六十万円をもつて現在の時計台を改修、これに当てることとし十二月開館の予定であつたが諸般の事情から開館がおくれ来る四月の新学期から開館が予定されている。(以下省略)』

「昭和25年4月9日:北海道新聞「時計台に私立図書館」;『昨年秋以来、札幌名物の時計台を改修して開設準備をすゝめていた市立札幌図書館はグリーンの装いも新たに九分通り完成、二十五日から開館することになった。(以下省略)』

※3:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』の「第二章 第六節 塗装 塗装調査」において『四二年報告書』(正式名称:『札幌市有形文化財「時計台」―札幌農学校演武場修理報告書』(北海道大学文学部附属北方文化研究施設一九七〇年発行『北方文化研究』第四号に所収。)が「緑色」から「淡いアイボリー」に塗替えと記述していることが示されている。また、屋根の赤色塗装については、札幌市公文書館の『旧写真ライブラリー「タイトル:時計台、所在地:札幌市中央区北1条西2丁目、撮影年月日:1954 9.5」』には赤い屋根の時計台が写っている。この写真には時計台前の道路に信号機も写っている。その場所に信号機が設置されたのは次の新聞記事から昭和29年5月のことであるので、この写真はそれ以降に撮影されたものと言える。また、※4に示す昭和33年6月4日付「時計台のお化粧」の記事に「このほど石垣つくりと外装の衣替えを始めたもの。石垣はいままでの木サクにかえたもの」とあるが、その写真にはわずかに「木サク」が写っていることを確認することができる。したがってこの写真は昭和33年6月以前に撮影されたものであるとも言える。以上のことから撮影年月日の1954 9.5とは整合性がとれている。昭和29年5月以降昭和33年6月まで(信号機があって木サクもある時期)に塗装は行われていないことから、撮影年月日1954 9.5の写真の赤い屋根の時計台は昭和28年の塗装によるものということが言える。

なお、「国重要文化財 旧札幌農学校演武場 時計台 観る、 知る 使う」のホームページのカラー写真「1958年(昭和33年)皇太子の行啓と時計台」でも赤い屋根が確認できる(以下の新聞記事からもわかるように昭和33年の塗装は6月中に終了している。一方皇太子の行啓は6月23日と7月8〜9日であるが、この写真は7月の時のものと思われる)。

・「昭和29年4月16日:北海道新聞「時計台前などに交通信号機」;『市では五月中に北一条西三丁目時計台前とそのほか一カ所(場所未定)に交通信号機をとりつける。これはこのほど北五東二札幌トヨタ自動車(社長小田直司氏)と同北海道マツダ自動車株式会社(社長横井七之助氏)からそれぞれ五十万円、計百万円の寄付が市にあり、これを前記信号機の設置費にあてることになった。』

※4:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』の「第二章 第六

節 塗装 塗装調査」の史料調査の新聞記事とそれ以外の新聞記事等から推定できる。

・北海道新聞:昭和33年6月4日付「時計台のお化粧」の記事:「ばい煙でススけた時計台で不評をかっていた市立図書館の衣がえが始まった。同館は開拓使時代の面影をしのぶ数少ない建物として道内外の観光客からしたわれているが、寄る年波と札幌特有のばい煙に打ちかてず、最近現場に永久保存か、移転か物議をかもしているものの、さしあたり開幕近い北海道博までに外観だけでも体裁を整えようと、このほど石垣つくりと外装の衣替えを始めたもの。石垣はいままでの木サクにかえたもので、中硬石を使い一・三〇bの高さで東西と南の三面を囲む、外装はクリーム色になるほか時計の文字盤にも手入れが加えられる。総工費約百五十万円で今月いっぱいには仕上がる・・」 

※5:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』の「第二章 第六

節 塗装 塗装調査」の史料調査の新聞記事(前と同じクリーム色を塗装)とそれ以外の新聞記事から推定できる。

・北海道新聞:昭和37年5月30日付「クラーク博士と時計台」の記事:「絶えない車の流れに囲まれて、ビルの谷間にすっぽり沈んだ時計台は、明るいクリーム色で薄化粧をしてはいるが、寄る年波は争えず、ところどころペンキがはげ崩れていた。」

※5-2:北海道新聞:昭和39年8月19日付「屋根をふきかえ・時計台の修理始まる」:三十六年六月の市の重要文化財指定以来、毎年三、四十万円をかけて部分補修をしていたが、ことしは屋根のふきかえ、閲覧室、廊下などの内部の塗り替え、外部のクリーニングと、百二十万円をかけての大がかりな補修。」

※6:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』の「第二章 第六節 塗装 塗装調査」において『札幌市有形文化財時計台調査報告書』(札幌市文化財保護委員 横山尊雄 1966(昭和41)年3月31日)ー昭和42年に実施された復元改修工事に向けての調査報告書ーが「ライト・グレーペイント」に塗替えと記述していることが示されている。

※7:「昭和五十一年に屋根の半分程度の葺き替え、全面的な外部塗装の塗り直し、木部の部分修理が行われ」(『旧札幌農学校演武場(時計台)の保存修理について』 松本 優(文化財建造物保存技術協会)より)、塗装の色は当時の記録写真から昭和42年に実施した塗装の色を継続したものと推定。

※8:「昭和五十三年以降は、毎年塗装補修が行われていたので、方位の違いによる塗装の傷み具合に、顕著な差は生じていない。」(『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書 第二章 第六節塗装 塗装調査』(財団法人 文化財建造物保存技術協会・1998年(平成10年)9月札幌市発行)より)

(以下は札幌市公文書館の写真より)

・昭和54年(1979.7.16):補修工事(時計台を愛護しましょう 清掃奉仕 時計台を守る市民の会の幕あり)

・昭和55年(1980.6.30):清掃奉仕(時計台を愛護しましょう 清掃奉仕 時計台を守る市民の会の幕あり)

・昭和57年(1982.6.7):清掃(時計台を愛護しましょう 清掃奉仕 時計台を守る市民の会の幕あり)

・昭和58年(1983.6.6):補修工事(昭和54年、55年、57年と同様のものと思われる)

・昭和58年(1983.9.12):屋根改修工事(時計台屋根飾りの改修と思われる)

※9:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書 第二章 第六節塗装 塗装調査』(財団法人 文化財建造物保存技術協会・1998年(平成10年)9月札幌市発行)、『旧札幌農学校演武場(時計台)の保存修理について』 松本 優(文化財建造物保存技術協 会)より。

今回の保存修理工事で塗装した油性調合白亜鉛ペイント指定職のマンセル記号

屋根(赤色) 2.5YR 3 / 6

外壁(白色) 7.5Y 7.5 / 2

内部(緑色) 10 GY 7 /  1.5


引用者註:マンセルシステムについて

マンセルシステムは色相(Hue)・明度(Value)・彩度(Chroma)の三属性で色を記号化(HV/C)して表す。

「7.5Y7.5/2」の場合〜「7.5Y」 は色相を、次の「7.5」は明度を、「/」の次の「2」は彩度を表す。

色相〜「赤み」「黄み」など色みの性質のこと。『赤(R)・黄赤(YR)・黄(Y)・黄緑(GY)・緑(G)・青緑(BG)・青(B)・青紫(PB)・紫(P)・赤紫(RP)の10色』をさらに分割して色を表す。10分割した場合は「10YR、1Y、2Y、3Y、4Y、5Y(Yの代表色相)、6Y、7Y、8Y、9Y、10Y、1GY」のようになる。

4分割した場合は「10YR、2 .5Y、5Y(Yの代表色相)、7.5Y、10Y、2.5GY」のようになる。

明度〜色の明るさの度合い。有彩色(色みのある色)は、無彩色(白・黒・灰色)の明度段階で表す(白=9.5、黒=1、9.5>灰色>1)。 

彩度〜有彩色で色みの強弱の度合い。彩度は無彩色からどのくらい離れているかを示す。無彩色(彩度=0)から離れるほど彩度は高くなる(数値が大きくなる)。

色見本(その1)

明度のみ異なる二つの色見本を示す。「7.5Y7.5/2」は明度が二つの中間になる。

       (7.5Y7.0/2)

   

       (7.5Y8.0/2)

    

色見本(その2)

「2.5YR3/6」と明度は大きく彩度は同じ。

      (2.5YR5/6)

   

「2.5YR3/6」と明度は同じで彩度は小さい。

      (2.5YR3/4)

   


引用者註:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書 第二章 第六節塗装 塗装調査』(財団法人 文化財建造物保存技術協会・1998年(平成10年)9月札幌市発行)において『外壁(白色)7.5Y 7.5 / 2』のように書かれていることに注意。

※9-2:札幌市ホームページ「重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)外部改修工事」:

・外壁塗装は、新しい塗装をただ塗り重ねるのではなく、また、古い塗膜をすべて掻き落としてから塗り直すわけでもありません。劣化して剥離等している旧塗膜部分のみを除去し、健全な塗膜は存置して、全面を従来に倣い塗り直します。

・屋根や外壁などの塗装が劣化していることから、平成30年6月1日から平成30年10月31日にかけて塗替えなどの外部改修工事を実施し、平成30年11月1日(木曜日)にリニューアルオープンしました。


主な参考資料『(1)については札幌市公文書館のご教示による)』

(1)『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書 第二章 第六節塗装 塗装調査』(財団法人 文化財建造物保存技術協会・1998年(平成10年)9月札幌市発行)

上記の資料の中で引用されている資料は次の通り。

 ・『札幌市有形文化財「時計台」―札幌農学校演武場修理報告書』(横山 尊雄, 越野 武, 後藤 達也 北方文化研究 / 北海道大学文学部附属北方文化研究施設 編 (4) 169-220, 1970-03):(上記資料の中では『四二年報告書』と記述されている。)

 ・『札幌市有形文化財「時計台」調査報告』(札幌市文化財保護委員 横山尊雄 1966(昭和41)年3月31日):(上記資料の中では『札幌市有形文化財時計台調査報告書』と記述されている。)

(2)『旧札幌農学校演武場(時計台)の保存修理について』 松本 優(文化財建造物保存技術協 会)

(3)札幌市公文書館の北海タイムス記事、北海道新聞記事、写真

(4)さっぽろ文庫(昭和62年12月18日 札幌市教育委員会発行)

(5)「時計台ものがたり(平成20年10月16日発行・中西出版)

(6)札幌時計台ホームページ「国重要文化財 旧札幌農学校演武場 時計台 観る 知る 使う」

(7)札幌市ホームページ「重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)外部改修工事」


「この道」の時計台は札幌時計台? 

挿絵から見える「この道」


その1 雑誌「赤い鳥」(大正十五年八月号)                       


「さし繪」はC水良雄、鈴木 淳、深澤省三。


引用者註:雑誌「赤い鳥」(大正十五年八月号)は「この道」の初出の雑誌である。

その2 『この道 日響楽譜NO.106』 (昭和2年11月)               横田憲一郎「教科書から消えた唱歌・童謡」”(株)産経新聞ニュースサービス”より引用


       

引用者註:表紙絵は加藤まさを(1897 - 1977、画家・詩人、1923年(大正12年)童謡『月の沙漠』を発表)である。(公益財団法人 鳥取童謡・おもちゃ館 わらべ館よりご教示)

『この道 日響楽譜NO.106』について(以下の資料は公益財団法人 鳥取童謡・おもちゃ館わらべ館よ りご教示)


・発行所 日本交響樂協會出版部
・北原白秋 作詞、山田耕作 作曲
・作曲年:1927年2月24日
・所蔵資料 第六版 昭和3年1月1日発行、第十版 昭和3年3月20日発行
・第六版、第十版とも初版出版年の記載は、昭和2年11月20日印刷、昭和2年11月28日発行
・第六版、第十版とも「はしがき」の記載は「11月18日 山田耕作」

山田耕作の「はしがき」「この道 日響楽譜106」第六版(1928年1月1日発行)より
 これは「からたちの花」の妹です。「からたちの花」にもました美しい綾衣を織り與へて下さい。ーー畏友白秋氏はかうした言葉を添えて、「この道」一篇の詩を私に寄せた。


 世の誰よりも母に愛され、世の誰よりも母に慈くしまれた私は、世の誰にもまして母を思ふ心切である。「この道」を手にした私は、いとけなかりし日を想ひ、あたたかい母の手にひかれて、そゞろあるきした道を偲び、ありし日のあはい追憶に耽らずにはをられなかつた。私は亡き母の愛にしたり(ママ)ながら、靜に「この道」を唱ひいでた(ママ)


 どうか母を慕ふ心をつれびきとして、この小さい歌を唱つてください。


註:「日響楽譜106」第十版(1928年3月20日発行)では、『靜に「この道」を唱ひいでた』の後に「。」がついた。


註:「この道 日響楽譜106」には歌詞も掲載されていて、第六版(1928年1月1日発行)では、第三連が「お母さまと馬車で行つよた」と誤植になっていて、第十版(昭和3年3月20日発行)では「お母さまと馬車で行つたよ」に訂正されている。


引用者註:1930年(昭和5年)12月、「山田耕作」は「山田耕筰」に改名した。
引用者註:昭和二年十一月十八日付の山田耕作の「はしがき」の冒頭部分の白秋の言葉は、耕作による作曲が昭和二年二月二十四日であるので、それ以前に詩の原稿とともにもたらされたものであろう。

その3 『白秋童謠讀本』(昭和6年11月)(国立国会図書館デジタルコレクションより)



挿絵は清水良雄




白秋の註:「北海道風景です。主人公は男の子です。」                 引用者註:                                                       詩「この道」が雑誌「赤い鳥」に発表されたのが大正15年、山田耕作(発表当時の名)の曲が発表されたのが昭和2年である。そして昭和六年に至って『白秋童謠讀本尋六ノ巻』(昭和六年十一月五日発行)に「作曲者 山田耕作 北海道風景です。主人公は男の子です。」と註をつけている。すでに 「時事新報」(昭和三年五月三十日ー六月六日)に「北海道風景を織ったものである。」と述べているので、新たに「主人公は男の子です。」の註が付け加えられたことになる。


引用者註:                                                       「この道」の直前に「森くん」という童謡が掲載されている。その註には「この童謡はよく過って解釋されますから書いて置きます。」と述べて内容を詳しく説明している。このことから白秋の註の目的には、詩の理解を助けるためと共に誤解されないようにとの配慮がなされているものと考えられる。ちなみに『白秋童謠讀本尋六ノ巻』には「からたちの花」も収録されているが、「作曲者山田耕作 からたち 拘(ママ)橘。花の咲くのは春の末です。比較的大きい白い花です。/この主人公は男の子です。」と註がある。


引用者註:                                                       薮田義雄「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)の年譜の昭和六年には、”六月、『白秋童謡讀本』全六巻を采文閣より刊行”と書かれている。また「白秋全集 別巻」(岩波書店)の年譜には何も書かれていないが、著作年表の昭和六年11月に”『白秋童謡読本』〔全六冊〕(采文閣 5日刊)”と書かれている。



北海道大学 北方資料データベース
「札幌市寫眞帖」(札幌市役所 昭和11年10月1日 発行)のうち「札幌市時計臺 史蹟C華亭」より(部分)


昭和11年当時の札幌時計台



挿絵から見える「この道」について


(1)上記の3つの挿絵にはいずれも「この道」を歩いている人物が描かれている。その1は棒切れをもった少年が歩いている。その2は着物姿の大人の女性が歩いている。その3は牧場の柵の脇の道を男女の子供が歩いている。


(2)その2の表紙絵はなぜか大人の女性である。『「この道」 日響楽譜NO.106』のはしがきには、上述のように山田耕筰の母を慕う切々とした文章がある。通常、主人公が描かれると思われるので、果たしてこの表紙絵の女性は歌の主人公なのか、あるいは追慕する母親だろうか。その3『白秋童謠讀本尋六ノ巻』(昭和六年十一月五日発行)に「主人公は男の子です。」と註をつけたのは、『「この道」 日響楽譜NO.106』の表紙に描かれた「大人の女性」が関係しているのかもしれない。


(3)その1とその3の挿絵にはいずれも第一連のアカシヤと思われる木とともに第四連に関連する雲    (積雲とみられるぽっかりと浮かんだ雲)が描かれている。


(4)第三連の「お母さまと馬車で行ったよ」の追憶の場面はどの挿絵にも描かれていない。


(5)挿絵で最も注目したいのは第二連に関連する時計台である。いずれも札幌時計台とは似ておらず、どちらかと言えば塔状の時計台であることから画家は札幌時計台を意識していないと考えられる。


白秋は挿絵の時計台についてどのような認識だったか?


 『白秋全集38 小篇4』後記(P534) 『白秋童謡読本』より


 一九三一(昭和六)年一一月五日、采文閣刊行の『白秋童謡読本』「尋一の巻」から「尋六の巻」の六冊に収録。一段組。装幀は白秋と恩地孝四郎。


 一巻の挿絵は恩地と白秋。二巻は石井了介と白秋。三巻深沢省三と白秋。四巻は清水良雄と白秋。五巻は石井了介と白秋。六巻は清水良雄と白秋


引用者註:上記のように『白秋童謡讀本』の装幀、挿絵には白秋が関わっている。そして「白秋童謡讀本 尋六ノ巻」の「序」では白秋自身が「此の讀本の装幀やカットなども、わたくし自身で意匠したり、描いてみたりしました」「各畫伯のそれぞれの挿畫はまた、此等の風景の中の美しい旗であり、雲であり、窗でもあります。」と述べている。


 以上のことから「白秋も札幌時計台を意識していなかった」と言える。



塔状の時計台の挿絵について


以下に示す論文を参考にして挿絵に描かれた時計台の形状について考える。


奈良県立大学 研究報告第12号


『日本における時計台の変遷ーなぜ時計台は大学にあるのかー』 阿達 麗子


上記論文から必要部分を以下に紹介する。


〇これまで日本において時計台の設置経過に焦点を当てた研究はあまりなされていない。横山編(1986)は雑誌「チャイム銀座」に1983年4月から85年1月に連載されていた「都市文化のなかの時計塔」を一冊にまとめ、日本だけでなく世界の時計塔にまつわる話を紹介し、大学の時計台のデザインについても個別に少しふれている。


〇高く目につきやすいところに時計が取り付けられている建造物を人々は時計台もしくは時計塔と認識していると考えられる。平野(1958)の整理は、時計台と聞いた時に一般に連想される「ビッグ・ベン」のような、建物の上部に塔状のものが突出している典型的なタイプのものだけでなく、慶應義塾大学図書館のように時計が取り付けられている構造物が上部にではなく前面に張り出しているものも含め、時計台(平野は「時計塔」としている)としていることから、本論でもこのような形状のものも対象に含める。


 また、時計台と時計塔の用語の使い方に明確な区別はみられず、横山(1986)も「日本では時計塔という言葉はあまりなじみが無くて、時計台と呼ばれることの方が多い。これは塔が独立して建てられることが少なくて、たいがい建物の頂上に載っていることが多かった日本での展開様相と関係があろう」と述べている。


引用者註:                                                       平野(1958)→平野光雄著「明治・東京時計塔記」(1958  青蛙房)と思われる。


〇明治東京の時計台:平野(1958)によると東京だけで40の時計台が確認されている。時計店に設置されていた時計台が14と圧倒的に多いが、他にも学校や勧工場、妓楼など様々な施設に設置されていた。しかし、明治から大正に時代が移り変わる頃にはすでにその数は半減、その後、1923年9月1日の関東大震災によって一挙に壊滅した。


〇東京大学の「安田講堂」、京都大学の「百周年時計台記念館」、早稲田大学の「大隈記念講堂」、法政大学の「法政二高校舎」など古くから設置されている学校はシンボルとなる時計台を有している例が多い。では、いったいいつ頃から日本の大学に時計台は建設されるようになったのだろうか。(途中省略)本論では、戦後の学制改革で新制大学が発足する1949年5月時点で大学とされた学校について、その前身校を含む484校を対象に時計台の有無を学校の『年史』類や記念写真集、HP等から調査した。資料の制約から時計台の有無を確認することが困難であった学校も多く、資料で確認できた249校中、時計台の写真や記述を確認することができた学校は93校で、1949年時点までに設置されていた時計台は53事例であった。


引用者註:                                                       53事例の内、1925年から1930年までに設置されたのが11校を数える。


〇(大学の)時計台をその形状からいくつかのタイプに分類し、表中の分類に示した。それぞれの分類は以下の通りである。


【Aタイプ】傾斜屋根の建造物の上に鐘楼状の構造物が取り付けられているタイプ。鐘楼状の構造物は左右対称の構造物の中心に設けられることが多い。明治初期の1870年代から1880年代にかけて設立された時計台のほとんどはこのAタイプに分類される。


【Bタイプ】平面屋根の建造物に立方体状の塔がそびえたっているタイプ。その多くは建造物の中央に塔が位置し、塔の上部に時計が取り付けられているが、塔が建物の端にいちしているものや時計が塔の上部ではなく、中央に位置しているものも含めている。1911年に設立された大阪商科大学の烏ケ辻校舎が最初の例である。


【Cタイプ】平面屋根の建造物の一部が凸状に突出しているタイプ。凸状部分の多くは建物の中央に位置し、その上部に時計が取り付けられているが凸部が建物の端に位置するもの、時計が建物の上部に位置しないものも含めている。Bタイプとの違いは、凸部の高さの違いであり、塔状にみえるものをBとしている。1918年設立の立教大学のモリス館が最初の例。


【Dタイプ】建造物の上部ではなく前面に張り出して時計を設置する構造物を付加しているタイプ。Dタイプの代表的なものとして1912年設立の慶應義塾大学図書館が挙げられる。


【Eタイプ】上記のタイプにあてはまらないもの。1929年に設置された関西学院図書館のみが挙げられる。


引用者註:                                                       「表2 1949年までに設置された大学の時計台」の中で、札幌時計台は以下のように記されている。


       時計台設置時の学校名:札幌農学校


        1949年5月時点の学校名:北海道大学


       時計台の設置年:1881年


       分類:A


       備考:演武場(現:札幌時計台)


引用者註:                                                       Aタイプとして「工学寮工学校校舎」、「九州帝国大学本館」、「東京英和学校神学部校 舎」、Bタイプとして「東京大学安田講堂」、「早稲田大学大隈記念講堂」、「府立高等学校校舎」、京都大学本館」、Cタイプとして「立教大学モリス館」、「東北学院大学本 館」、「神戸大学兼松記念館」、Dタイプとして「日本大学三崎町校舎」、神奈川大学本館」、Eタイプとして「関西学院大学図書か」の写真がそれぞれ掲げられている。


〇1870年代から1880年代にかけて一時、一世を風靡したAタイプの時計台は、時計本来の役割である時間を示すことよりも文明開化を体現したシンボル性を示すものとしての役割が勝っていたことから、時代の流れとともに徐々にその存在意義が薄れていき、改修工事を行う際などに取り外され、姿を消していったのだろう。


〇1920年代から1930年代にかけて到来した学校の第二次時計台建設ブームについてみていきたい。当時、急速に増加した時計台はタイプB とタイプCであり,今日まで変わらずその姿を留めているものも少なくなく、大学の時計台と聞いたらまずこの時期に建てられた構造物が頭に浮かぶ人も多いだろう。なぜこの時期に再び時計台建設が増加したのだろうか。その要因の一つとして、1925年の同時期に建設された京都大学「本館」と東京大学「大講堂」(通称:安田講堂)、この2つの時計台の存在が挙げられるのではないか。



引用者註:                                                       上記論文より文明開化の象徴として明治期に建設された時計台は、明治から大正に時代が移り変わる頃にはすでにその数は半減、その後、1923年9月1日の関東大震災によって一挙に壊滅したこと。その一方、大学の時計台は明治期にも建設されたが、1920年代から1930年代にかけて到来した学校の第二次時計台建設ブームがあって、その頃に建設された大学の時計台はタイプBとタイプCであることを示している。


 先に示した挿絵その1は1926年、その2は1927年、その3は1931年に発行されている。挿絵が札幌時計台を描いたものでないとすれば、その当時建設された大学の時計台の影響を受けたのではないかとも思われる。ちなみに雑誌「赤い鳥」(大正15年八月号)に「この道」(挿絵その1)が発表された前年の1925年にはBタイプ、すなわち塔状の時計台を持つ京都帝国大学「本館」(現:百周年時計台記念館)と東京帝国大学「大講堂」(通称:安田講堂)が建設されている。先に示した『この道日響楽譜NO.106』の挿絵(挿絵その2)がこれらに相当しているかもしれない。


 一方、「この道」の初出である雑誌「赤い鳥」の挿絵(挿絵その1)や『白秋童謠讀本』(昭和6年11月)の挿絵(挿絵その3)の時計は頂部が三角形の尖塔状であり、どちらかと言えばAタイプとして写真で紹介されている中のたとえば九州帝国大学本館に似ているかもしれない。あるいは日本の大学の時計台というよりも外国の有名な時計塔、たとえばビッグ・ベンなどの影響も当然考えられる。



京都大学ホームページ「写真で見る京都大学」より引用。




                                         時計台  1925(大正14)年撮影


 まだ時計の針がありません。京大の時計台は、1925(大正14)年に竣工しました。その後、現在に至るまでの京大のシンボルであり、2003(平成15)年には新しい「百周年時計台記念館」として生まれ変わりました。


東京大学ホームページ 「東大史Q&A」より引用。



                                            「東京帝国大学講堂正面」


 本郷キャンパスに位置する安田講堂は正式名称を大講堂と言います。安田講堂とよばれるのは、実業家安田善次郎の意向とその寄附によって建てられたからです。 大講堂が竣工されたのは1925(大正 14年)7月 6 日です。現在、大講堂は国の登録有形文化財に指定されています。


九州大学大学文書館ホームページ「写真目録九州帝国大学時代」より引用。




                      写真名:工科大学本館


                      撮影時期:大正期



「白秋の装幀・挿絵へのこだわり」の例


野上飛雲「北原白秋 その三崎時代(抄)『雲母集』を歩く」(三崎白秋会)より引用。


(三)「雲母集」の表紙


「雲母集」の表紙は白秋の自画自装である。・・・


石井柏亭や山本鼎など画人と交友のあった白秋は、自著の出版には自ら装幀を考え、挿絵を画き、自分の意匠通り装幀している。


白秋自身の挿畫

『繪入り童謡第六集「子供の村」(大正14年5月)アルス』より

「かんなくずの笛」「蓮の花」「春まで」の三篇には白秋自身の挿畫がある。このうち「蓮の花」の挿畫を以下に示す。




「詩と挿絵の関係」の例:「肩たたき」(西條八十作詞・中山晋平作曲)の挿絵・表紙絵の場合
「日本童謡辞典(東京堂出版)」より引用。




童謡小曲 第5集(中山晋平 編集、加藤まさを 装幀 ):大正12年 山野楽器店出版


母親への言葉が優しいので画家が女児と感じたからであろう。


引用者註:                                                       「日本童謡辞典(東京堂出版)」には多くの雑誌の挿絵や楽譜集の表紙絵が掲載されているが、当然のことながらその多くは歌の主人公である少年や少女が描かれている。「肩たたき」(西條八十作詞・中山晋平作曲)について次のように解説している。


 『詩の内容は、陽の降りそそぐ日本式家屋の縁側で、子どもが母の肩たたきをしている光景である。男児とも女児とも書かれていないが、「幼年の友」の挿絵も『童謡小曲』第五集の表紙絵も女の子を描いているのは、子どもの母親への言葉が優しいので画家が女児と感じたからであろう。』



歌集の中の「この道」と時計台の絵@
昭和三十一年六月五日発行「平凡第十二巻第六号別冊付録 青春愛唱歌全集 NO.1」(米山正夫編)より引用


歌集の中の「この道」と時計台の絵A


原 礼彦編「日本の歌名曲集」成美堂出版(1995年3月20日)より引用




歌集の中の「この道」と時計台の絵B


こやま峰子・文/渡辺あきお・絵「心に残る愛唱歌」東京書籍(2004年7月31日)より引用




詩集の中の「この道」の時計台の絵@


萩原昌好編『日本語を味わう名詩入門7「北原白秋』あすなろ書房(2011年10月30日)より引用

 

                          

札幌時計台を歌った高階哲夫「時計台の鐘」の創られた経緯(以下の文章及び参考資料は富山県滑川市博物館からのご教示によるものです。)


(1)「時計台の鐘」は大正11年の作詞作曲として紹介されていたが、その根拠となるものについて、曲の制作年月について記述しているものはなく、高階哲夫夫人の満寿(後に再婚し村井姓)や札幌豊平館の食堂経営者で大正10年の高階らによる札幌公演を企画主催した杉山正次の述懐を元にした通説であった。


 演奏会の不評記事に心を痛めた高階を慰撫するため、杉山が高階を月寒の羊牧場に案内し、その後の公演が成功に終わったことから、高階が感激して札幌の街を歩き回ったときに着想を得て生れたのではないかと推測され、翌年高階と満寿が結婚した後に曲ができあがったというものである。


(2)その後「時計台の鐘」の成立をめぐり北海道新聞社の前川公美夫氏が新たな発見や調査研究を著書にまとめている。それによると、茨城大学の佐々木靖章教授により「大正十二年九月」と書かれた「時計台の鐘」の手書き楽譜が掲載された総合芸術雑誌『異端』が発見され、これまで知られていた楽譜とは詞や曲が若干異なり、完成稿となる最初期段階のものと考えられることがわかった。さらに大正10年の「不評記事」は実際には存在せず、大正12年に行われた札幌での高階の演奏会に対する「不評記事」が存在したことから、通説にあった演奏会は大正10年の公演ではなく、大正12年の公演であったことが判明した。


(3)以上から、「時計台の鐘」は、大正12年7月の札幌での演奏会の不評をきっかけに、東京へ戻ってから作詞作曲され、9月に一応の完成をみて、翌年1月に『異端』に楽譜が掲載されたと考えられる。同じ頃の大正13年の初めに大阪市で初演され、その後若干の改変を経て、昭和2年に最終稿として楽譜が出版された。


(4)なお総合芸術雑誌『異端』について、新聞記事ではそれぞれ「『異端』(1924年1月刊)」、「『異端』の第二号(大正十三年一月)」とあり、前川氏の著作では、『異端』第2号は大正13年1月1日発行と記載されている。また、北海道新聞掲載前に佐々木教授から当館へ送られてきた手紙があり、そちらにも、『異端』大正13年1月号(通巻第2号)と書かれ、掲載楽譜と目次のコピーが添付されている。目次から楽譜が第2号に掲載されていることは確認できるが、残念ながら表紙や奥付部分が確認できない。しかし以上のことから、『異端』は大正13年1月に発行された雑誌であると思われる。


参考資料


・前川公美夫『響け「時計台の鐘」』亜璃西社 平成13年10月1日


・「名曲「時計台の鐘」誕生は大正12年 定説より2年遅く」北海道新聞 平成12年12月30日付


・佐々木靖章「「時計台の鐘」誕生の時」北海道新聞(夕刊) 平成13年2月2日付』


引用者註:高階哲夫は現在の富山県 滑川市出身である。


引用者註:読売新聞文化部「唱歌・童謡ものがたり」(岩波書店)の以下の記述は誤りということになる。

・中でも、最高の傑作が東京音楽学校を卒業した翌年の一九二二年(大正十一)、二十六歳の時に作った『時計台の鐘』だった。その前年の七月、演奏会で訪れて深い感銘を受けた札幌の街の美しさと、石狩の大平原の雄大さをそのまま詞と五線譜に表現したものだ。

引用者註:札幌時計台ホームページにも次のように「大正11年」と記述されている。
・(前略)また大正11年に高階哲夫は「時計台の鐘」を作詞作曲していることから、明治時代は「農学校の大時計」と呼ばれ、大正時代に「時計台」と呼ぶのが定着したようです。

札幌時計台の呼び名の変遷について


「さっぽろ文庫6 時計台 第3章 百年のあゆみ」(札幌市・札幌市教育委員会)より引用


(その1)


1 札幌農学校と時計台 秋月 俊幸


明治十四年にはピーボディの協力で漸く演武場に時計塔がとりつけられたが、彼は完成前に帰国したので時計の調整は地質学教授工藤精一によって行なわれた。工藤は八月十二日に開拓使に検査を上申して次のように届出ている。「演武場時計落成器械運転ノ遅速モ整理致シ、自今太陽及星ヲ測リ、札幌ノ『ミイン・タイム』中央時ヲ報示候間此段御届申上候也」。このようにして大時計は、明治天皇の農学校行幸よりか二十日ほど前に動き始めたのである。


○明治十九年七月の勅令第五一号によってわが国は標準時を採用したが、同二十一年一月には演武場の大時計を札幌の標準時計とすることが告示された。これをもって大時計は名実ともに札幌の時計となったのである。しかしその翌月には故障のため一週間ほど報時を休んでいるし、時計の正確さにも問題があったらしく、同年末には「北海道毎日新聞」がこれまた愉快な記事をのせている。「…此頃東京より帰りたる人々の話しに據るに甲乙二人が所持の時計は其発途前六十日間東京の正午に彼是一秒の差違なかりしに当札幌に着きて之をみれば農学校の大時計とは正に十五分の差違を示せりとて大ひに訝りて物語られしが右標準時は全国一定のことなれば斯る差違を見るべき道理は決してなき筈ならんに去るにても何れの相違なりや」


引用者註                                                        明治十四年当時の文書では「演武場時計」、明治二十一年当時の新聞記事では「農学校の大時計」と呼ばれていたことがわかる。なお、筆者は明治二十一年の札幌の標準時計の説明の際「演武場の大時計」の言葉を用いている。


(その2)


2 札幌区時代と戦前 山崎 長吉


移 転:明治三十六年七月二十八日、札幌農学校は札幌の北部にある農場の牧草地内(現・北大農学部附近)に校舎を新築し、逐次移転した。かつて札幌農学校ができたとき、広い校庭に鮮緑したたる芝生の上に、老楡(ろうゆ)の枝を交え、枝越しに白堊(はくあ)の学び舎(や)が見え、新生札幌の象徴を思わせた。しかし二十五年を経過し、ところは札幌の中心部となって、西の道庁、東の農学校が相対峙することが、町の発展を阻害することになったので、明治三十二年から移転計画をたてた。清冽(せいれつ)な環境に一、一二六坪の木造校舎と六〇坪のレンガ造の校舎ができ、エルムの鐘を合図に、学園の第三のスタートに立ったわけである。演武場の時計は新校舎に取り付けるべく努力したが、何しろ大きいため断念した。それは「農学校の時計」から「札幌区民の時計」に変わったことを意味する。いつとはなしに建物も演武場から時計台と呼ばれるようになり、札幌の時計台とシンボライズされるようになった。


引用者註                                                        演武場が札幌区(註:区制施行は明治32年、市制移行は大正11年)に貸付されたのは明治三十六年である。上記の文章からこの頃以降「いつとはなしに建物も演武場から時計台と呼ばれるようにな」ったことがわかる。


     ***************************


明治39年第40回区会決議録より引用(この項、「札幌市公文書館」よりご教示)


・第一号議案の議題は「不動産買得ノ件」で、現在の時計台を札幌区で買い取ることについて審議している。


・第二号議案の議題は「札幌区明治三十九年度歳入歳出追加予算」で、買い取る建物を移転することについて審議している。


・第一号議案の中で「旧演武場」と記載されている箇所が一箇所ある。


・第一号議案の議案書の中で買得建物について「舊演武場」と記されており、第二号議案の議案書の歳出臨時部第九款建物買得及移轉費第一項建物買得費一目建物買得費の附記及び同款第二項買得建物移轉費一目買得建物移轉費の附記において、共に「札幌農学校舊演武場」と記されている。


引用者註                                                        明治三十九年当時、札幌区会での公式文書では建物の名称として旧演武場舊演武場札幌農学校舊演武場が用いられている。


『明治39年8月5日 小樽新聞 「時計臺其他工事着手」』より引用


『札幌區にては舊札幌農學校跡時計臺建物を北一條西三(ママ)丁目南西角に移轉及び北二條西一丁目道路開鑿並びに同上創生川橋梁架設工事に着手せしが何れも本月中に竣工の豫定なりと』


引用者註                                                        明治三十九年に演武場が札幌区に移管され、現在地に移転する際の新聞記事であり、この時すでに「時計臺」という言葉が使われている。


明治44年6月23日 北海タイムス 「時計臺家屋修理」より引用
『過般來札幌區役所に於ては大時計家屋の修理を為し居れるが該費用は原状回復の失費代償の意味を以って郵便局より無償譲渡を受けし建増家屋の買却代金を充用せるものなるが内部を完全に修理するには幾分不足を生ずる故之等は一部教育會に於て為す事となれる由にてペンキ塗りは目下豊平館の塗替を受負居る當區森廣氏引受近々着手の筈にて来月十日頃までには全部完成の見込みなりと』
引用者註                                                        見出しには「時計臺家屋」、本文では「大時計家屋」という言葉を用いている。しかし大正時代に入ると新聞記事では時計臺の言葉が普通に使われている。


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小説の中では札幌時計台はどのように呼ばれていたか


『小説 石狩平野(船山馨):昭和42年ー43年』について調べる。


(第4章)


○明治十四年:その日、かねて工事を急がせておいた豊平館が、内部の装飾や調度をのぞいて、あらかた落成したので、伊住が黒田を案内して視察した。木造二階建の瀟洒なルネサンス風のこの白堊館が、天皇の行在所に予定されていたからである。


○明治十四年八月三十日:農学校の演武場の屋根の大時計が、九時を指そうとしていた。(引用者註:午前9時のこと)


○明治十四年九月一日:演武場の時計台が十時半をまわっていた。(引用者註:午後10時半のこと)


(第9章)


○明治十八年:停車場通りの両側に、開拓当初切り遺した楡の古木のあいだに、あらたにアカシヤや柳を移植して街路樹の体裁を完成したのは、この年の五月であったが、・・


(第11章)


○明治十八年:次郎は演武場の屋根の時計台へ眼をあげながら言った。


○次郎は向側の講堂の白い壁に視線をあてながら、低く呟くように言った。(引用者註:北講堂のことと思われる)


演武場の大時計が十時をうった。(引用者註:午前10時のこと)


(第13章)


○明治十九年:二人は豊平館の横手まできていた。樹木の黒い繁みの向うに、夜目にも仄白い西洋館が、淡い星の光を浴びて見えがくれしていた。


引用者註                                                        上記は小説の中から豊平館、アカシヤに関する部分、それに時計台に関する部分を抜き書きしたものである。このうち時計台については農学校の演武場の屋根の大時計演武場の時計台演武場の屋根の時計台演武場の大時計の言葉が使われている。


引用者註                                                        「時計台ものがたり(中西出版)」によると、「演武場に時計塔を設置・運転開始:明治十四年八月十二日」と書いてある。したがって小説「石狩平野」によれば、運転開始から約3週間後の9月1日には「演武場の時計台」と呼ばれていたことになる。また明治18年の場面でも「演武場の屋根の時計台」の言葉が出て来る。しかし「時計台」という呼び方は前述したようにもっと時代を経た後と思われるので疑問が残る。


『小説 星座(有島武郎):大正11年5月』について調べる。


(1)左の足先は階子の一番上のおどり段に頼んだが、右の足は宙に浮かしているよりしようがなかった。その不安定な坐り心地の中で詩集が開かれた。「鐘の賦」という長い詩のその冒頭に掲げられた有名な鐘銘(しょうめい)に眼がとまると、園はここの時計台の鐘の銘をも知りたいと思った。ふと見ると高さ二尺ほどの鐘はすぐ眼の先に塵まぶれになって下っていた。


(2)農学校の演武場の一角にこの時計台が造られてから、誰と誰とが危険と塵とを厭わないでここまで昇る好奇心を起したことだろう。修繕師のほかには一人もなかったかもしれない。そして何年前に最後の修繕師がここに昇ったのだろう。


(3)時計台のちょうど下にあたる処にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石(といし)のように彎曲(わんきょく)していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視(いわくらともみ)が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「演武場」と書いてある。


(4)その時農学校の時計台から五時をうつ鐘の声が小さくではあるが冴(さ)え冴えと聞こえてきた。 おぬいさんの家の界隈(かいわい)は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに賑(にぎ)やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を劈(つんざ)いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた。


(5)霰はいつか降りやんでいた。地の底に滅入(めい)りこむような寒い寂寞(せきばく)がじっと立ちすくんでいた。農学校の大時計が一時をうち、二時をうち、三時をうった。遠い遠い所で遠吠えをする犬があった。そのころになって園の部屋の灯は消えた。


引用者註


背景は明治33年当時の小説である。ここでも時計台という言葉が出て来る。作品が書かれたのは前述したように、一般的に時計台と呼ばれていた大正11年であり、その 影響があったとのではないかという推定も成り立つ。


有島武郎と札幌農学校との関係;明治29年(1896年)学習院中等科卒業後、札幌農学校予科5年級編入学、明治34年(1901年)札幌農学校本科卒業。明治41年(1908年)東北帝国大学農科大学予科の英語教師として札幌に赴任。大正6年(1917年)農科大学退職。



遠藤明久著「時計台 HTBまめほんM」(発行者 北海道テレビ社長室)より引用


演武場建築を考える場合、忘れてならない事実がある。それは、演武場の時計台が、明治前期の「時計台時代」の所産である、ということだ。


 演武場が建築された明治十一年前後のわが国では、官庁、兵営、学校、商店、妓楼などの、さまざまの建物の屋上に、時計を飾ることが、流行した。 仲田宗之助の『明治商売往来』に、「都市の建物に簪(かんざし)のように飾られた。」とある。(途中省略)時刻を伝える、という機能的な意図も、むろんあったに違いない。が、文明開化を象徴するアクセサリーの役割が大きかった。
 上野益男の『時計の話』によると、明治前期だけで、全国で数十の時計台を数えることができるそうだ。また、平野光雄の『明治・時計塔記』によると、明治末年の東京区内には、三十六の時計台があったという。
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明治時代の文学作品の中の「時計臺」について。


(1)三島霜川 「昔の女」 「中央公論」1908(明治41)年12月1日号


『・・・ 二三軒雑誌を素見(ひや)かして、中央會堂の少し先(さき)から本郷座の方に曲ツた。何んといふことはなかツたがウソ/\と本郷座の廣ツ場に入ツて見た。閉場中だ。がもう三四日で開(あ)くといふことで、立看板も出て居れば、木戸のところに來る××日開場といふビラも出てゐた。茶屋の前にはチラ/\光ツてゐる俥が十二三臺も駢んで何んとなく景氣づいてゐた。由三は何か此う別天地の空氣にでも觸れたやうな感じがして、些(ちよつ)と氣が浮(うは)ついた。またウソ/\と引返して電車路(みち)に出る。ヤンワリと風が吹出した。埃が輕く立つ。


 何處といふ的(あて)もなく歩いて見る氣で、小さな時計臺の下から大横町(おほよこちよう)に曲ツて、フト思出して、通りから引込むだ肉屋で肉を購ツた。・・・』


引用者註:三島 霜川(みしま そうせん、1876年 7月30日  - 1934年 3月7日)作家 ・演劇評論家。


(2)土岐哀果 歌集「黄昏に」 東雲堂書店 明治四十五年二月十八日発行


  「街と家と」


  ある朝の、


  銀座の街の時計臺


     ものめづらしく、仰ぎつつ行けり、



引用者註:土岐哀果(本名 土岐善麿)歌人・国文学者 1885−1980