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やすい しげみ

安井重三

やすい しげみ

1859(安政6.10.15)〜 1939.8(昭和14)

明治・大正・昭和期の大審院判事

埋葬場所: 3区 1種 12側 9番

 岡山県出身。安井源三の3男。1909.6(M42)分家。1880(M13)法学生徒を経て、1883 判事補となる。1887 判事登用試験に合格し、正式に大審院判事となる。
 名古屋地方裁判所部長、松山地方裁判所部長、広島控訴院判事、宇都宮地方裁判所長、函館地方裁判所長を歴補した。従4位 勲3等。享年79歳。

<人事興信録>


*墓所には二基建つ。右側に和型「安井重三之墓」、左側に「安井家之墓」、真ん中に墓誌が建つ。

*妻は よしの(芳野:安政6.11-:同墓)。よしの は奈良県出身、中上文吾の長女で玉置せんの養女(玉置奉悦医師の養女)。5男1女を儲ける。長男は早死。二男の安井英二(同墓)が家督を継ぎ、内務官僚、知事、政治家となる。三男の恪三は妻が養子としていた玉置家を継ぎ玉置恪三となる。四男の俊雄は横山軫の養子となり横山俊雄となる。長女は光子。五男が五一。安井英二の妻は大阪市長を務めた植村俊平(2-1-12)の長女の綾(同墓)。英二の長男(重三の孫)の安井正(同墓)は三菱信託銀行社長を務めた銀行家。


【大審院】
 大審院とは明治憲法下の日本において設置されていた司法裁判所の中における最上級審の裁判所である。
 1875(M8)「元老大審二院を置くの詔」より創設され、1890(M23)裁判所構成法において最上級の裁判所と規定される。これにより従来司法卿の有した裁判権を除き司法・行政の分離が行われる。東京に置かれ、地方裁判所・控訴院の判決を不服とする者の最終裁判を行うほか、皇室犯・内乱罪の裁判を行った。その判決は法律解釈の基準となり他の裁判所の判決を拘束した。大審院の地位は「開拓使の上、諸省の次」とされた。また大審院長は勅任判事の中から天皇が親補し、大審院部長は勅任判事の中から法相によって奏任された。
 現在の最高裁判所裁判官(長官及び判事)は15名だが、大審院判事の構成人数は、1919(T8)〜1941(S16)までが47人、1942(S17)は37人、1946(S21)廃止前年は31人であった。1947(S22)裁判所法の施行による最高裁判所の設置により廃止。


【多磨霊園に眠る大審院長】
第14代平沼騏一郎在任:1921.10.5(T10)〜1923.9.5(T12)10区1種1側15番
第20代泉二新熊在任:1939.2.15(S14)〜1941.1.30(S16) 8区1種4側46番


【多磨霊園に眠る大審院判事】
吾孫子 勝8区2種13側1番
伊藤景直(霧岳)20区2種15側1番
奥野健一25区1種44側
亀山直秀10区1種15側23番*長男は応用化学者の亀山直人
河島喜蔵7区1種6側1番
北本常三郎18区1種17側6番
篠原泰助14区1種4側
高田豊21区1種6側*弟は文部官僚の高田休廣
根本松男6区1種12側26番
本多康直9区2種16側1番
安井重三3区1種12側9番
和田千一16区2種19側22番


 


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