メイン » » » 植村俊平
うえむら しゅんぺい

植村俊平

うえむら しゅんぺい

1863(文久3.10.19)〜 1941.11.19(昭和16)

明治・大正期の政治家、大阪市長

埋葬場所: 2区 1種 12側

 山口県出身。植村島之丞の二男として生まれる。植村家は代々長府藩士として長府(下関市)に居を構えていた。成立学舎などを経て、1886(M19)東京帝国大学法学部を首席で卒業。翌年、助教授。英国へ遊学。1892代言人(弁護士)資格取得。 英吉利法律学校(中央大学)などで講義をする。その後、日本銀行文書局長、住友本店支配役、鉄道庁理事などを歴任。
 1909.12(M42)大阪市長を辞任した山下重威の次の市長の選考が難航し、辞任8ヶ月後、'10第4代大阪市長に任命された(1910.8.8〜1912.7.25)。 '11岩本栄之助の寄付によって中央公会堂を建設するにあたり、財団法人公会堂建設事務所をつくり理事長となった。
 得意の鉄道事業の知識をいかし市電の整備につくす。'12.1.16大阪南の大火が起き、4885戸焼失、死者4名、重軽傷者170名、火は12時間燃え続ける大惨事が起きた。 原因は風呂屋の煙突から出る火の粉が難波新地の遊郭の高楼を燃やしたことから発生した。 3年前にも北の大火があり、復興時に焼け跡に市電を敷いた経験があったため、今回も当初決まっていた計画を変更し、焼け跡に市電を通すことにした。 これに伴って、大正橋(道頓堀と木津川の合流部にかかる橋)が架橋されることとなった。 これに対して、近くの大阪瓦斯が九州から石炭を運ぶ機帆船が橋ができると通れなくなると反対を表明。 大阪瓦斯は親密であった大阪府知事の犬塚勝太郎を動かし、方針を変更させ、知事の具申により内務省は、新線案を不許可とした。 もともと府、市が協議し申請したものが、途中で府が態度を変えたことに対して、大正区民らの間で、大正橋期成同盟が作られ、植村市長をバックアップ。 府と市の対立に発展した。大正橋の上を通る市電の特許を国と府から保留され、植村は大阪市長を引責辞職する事となった(7.25)。 これを聞いた市民は激昂し市民大会を開き、瓦斯会社、府、内務省を激しく批判。市民も市会も植村の再任の要望を出すが、植村は固辞した。 結果、市民の怒りに府や国は折れて開通することとなった。'15大正橋は架設される。当時は2ヒンジ鋼アーチ橋で、支間長が91.4m、当時としては日本一長いアーチ橋であった。
 市長辞職後は、'13(T2)大阪株式会社所理事長、'16王子電気軌道社長に就任した。正5位 勲4等。享年78歳。

<大阪市の歴史など>
<森光俊様より情報提供>


植村家之墓

*墓石は和型「植村俊平 / 室 多栄 墓」。右面に二人の没年月日、行年と戒名が刻む。戒名は清鑑院殿徹譽俊明大居士。妻の多栄は岡村義昌の4女で、判事・弁護士・中央大学学長を務めた岡村輝彦の妹。墓石裏面は「昭和十七年十一月 植村琢 建之」と刻む。墓石の右側には古い墓石が二基並ぶ。墓所右手側に和型「植村家之墓」。裏面は「昭和五十五年九月 植村攻 建之」と刻む。墓誌が建ち、植村俊平の長男で化学教育者・化学史家の植村琢、琢の妻で三菱財閥系の実業家の赤星陸治の長女の加寿子、琢の長男で銀行家の植村攻が刻む。

*植村俊平と多栄の間に二男三女を儲ける。長男は植村琢、次男は日本興業銀行秘書課長などを務めた銀行家の梅村成、長女の綾は知事・政治家の安井英二(3-1-12-9)に嫁ぎ、二女は八千代、三女のマキは商工官僚の東栄二に嫁いだ。

*植村琢と加寿子の間に一男三女を儲ける。長男の植村攻は銀行家で海外滞在時での欧米コンサート風景を著した『巨匠たちの音、巨匠たちの姿』を刊行している。攻の妻で工学博士の山県昌夫の長女の宣子。長女の照子は眼科医の古市功、二女のマリ子は黒田長栄、三女の栄美子は宇多小路勝に嫁いだ。

*多磨霊園に眠る大阪市長経験者は第8代大阪市長(1935.2.12〜1936.7.20)加々美武夫(12-1-17)がいる。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。