大阪出身。父は政治家の植村俊平、多栄(共に同墓)の長男として、父の勤務地(後に大阪市長)で出生。植村家は代々長府藩士として長府(山口県下関市)に居を構えていた。
小学校は父の転勤に伴い、大阪・神戸・長府と転々とする。中学入学直前に盲腸炎となり1年休学した。単身上京し、暁星中学校に入り、フランス語教育に没頭。この時にフランス語を修得したことで、後にパリでウルバイン教授やストラスプールでブレス教授について研究し、後年、パリ大学都市日本会館館長として重任を負って活躍する上に、また化学史研究の上に計り知れない大きな利便となった。
暁星中学校卒業後に、第八高等学校の試験を受けたが、身体検査で胸部疾患が発見され静養につとめ、1914(T3)第一高等学校に進学し、'21東京帝国大学理科大学化学科卒業。東京工業大学講師、助教授を経て、戦後、東京工業大学教授となり、大学の図書館長も兼ねた。無機化学の大家で、稲村耕雄ら門下も多数輩出した。
'51分光化学研究会発起人(日本分光学会)で代表となる。'54東工大初代野球部長(野球部が設置されたのは大正11年)。主な著書に『稀有金属』(1948)、『稀元素の科学分析』(1949・共著)、『分光化学実験法』、『空気と水』1950)、『化学―なぜ・何故ならば』 (1951)、『非金属の化学』(1954・共著)、『化学領土の開拓者たち』(1976)などがある。
東京工業大学を停年退官し名誉教授。その後は立教大学教授を務めた。'77化学史を含む著作活動を通じての化学教育への多年の寄与により第2回日本化学会化学教育賞受賞(昭和52年度)。切手コレクターとして日本とフランスの切手を中心としたコレクションは高く評価されている。理学博士。正5位 勲4等。享年86歳。
*墓石は和型「植村俊平 / 室 多栄 墓」。右面に二人の没年月日、行年と戒名が刻む。墓石裏面は「昭和十七年十一月 植村琢 建之」と刻む。墓石の右側には古い墓石が二基並ぶ。墓所右手側に和型「植村家之墓」。裏面は「昭和五十五年九月 植村攻 建之」と刻む。墓誌が建ち、植村琢から刻む。戒名は修學院量譽琢道一巌居士。行年は八十七才。妻は加寿子で戒名は心月院浄譽尋光壽芳大姉。琢と加寿子の長男で銀行家の植村攻が刻む。
*琢の妻の加寿子は三菱財閥系の実業家の赤星陸治の長女。植村琢と加寿子の間に一男三女を儲ける。長男の植村攻は銀行家で海外滞在時での欧米コンサート風景を著した『巨匠たちの音、巨匠たちの姿』を刊行している。攻の妻で工学博士の山県昌夫の長女の宣子。長女の照子は眼科医の古市功、二女のマリ子は黒田長栄、三女の栄美子は宇多小路勝に嫁いだ。