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やすい えいじ

安井英二

やすい えいじ

1890.9.23(明治23)〜 1982.1.9(昭和57)

大正・昭和期の内務官僚、知事、政治家

埋葬場所: 3区 1種 12側 9番

 東京府品川出身。大審院判事の安井重三(同墓)の二男として生まれる。1939(S14)家督を相続。1916(T5)東京帝国大学法律科卒業。 前年に高等文官試験に合格しており、卒業後は内務省に入省。
 東京府属、東京理事官を経て、'18警保局事務官となり、南原繁(3-2-11-2)と共に労働組合法の草案作りを行い、'23より1年間ドイツで調査を行った。 外務事務官、社会局事務官、内務書記官、内務大臣秘書、内務事務官などを歴任。'29(S4)警保局保安局長として、思想犯の取締りを強化する一方で拷問の使用を厳しく禁じて、彼らの体制側への転向を促す方針を採った。
 '31(S6)第23代岡山県知事に就任(1931.10.2〜12.18)。次いで、内務省社会局労働部長、'32内務省地方局長となる。 地方局長では選挙粛正運動の推進にあたり、それが評価されて、'35第25代大阪府知事に任命された(1935.1.15〜1937.6.4)。 在任中、住友財閥の小倉正恒に近づき、その推薦もあり、'37第1次近衛文麿内閣組閣に文部大臣として入閣。病気を理由に4ヶ月で辞任。 '38勅選貴院議員。'40第2次近衛内閣の内務大臣(初め厚生大臣も兼任)となり、閣内にあって風見章法相と共に新体制運動を推進。その後、翼賛会の方向転換により風見と共に辞任。
 太平洋戦争末期、本土決戦に備えて、'45大阪府知事(第31代)に再任(1945.4.21〜6.10)される。近畿地方総監も兼務するが、間もなく終戦。 戦後は公職追放。解除後'58国家公安委員に就任。正3位 勲2等。享年91歳。

<コンサイス日本人名事典>
<日本歴代知事総覧>


*墓所には二基建つ。右側に和型「安井重三之墓」、左側に「安井家之墓」、真ん中に墓誌が建つ。

*母は よしの(芳野:安政6.11-:同墓)。よしの は奈良県出身、中上文吾の長女で玉置せんの養女(玉置奉悦医師の養女)。5男1女を儲ける。長男は早死。二男の安井英二(同墓)が家督を継ぐ。三男の恪三は母が養子としていた玉置家を継ぎ玉置恪三となる。四男の俊雄は横山軫の養子となり横山俊雄となる。長女は光子。五男が五一。安井英二の妻は大阪市長を務めた植村俊平(2-1-12)の長女の綾(同墓)。英二の長男(重三の孫)の安井正(同墓)は三菱信託銀行社長を務めた銀行家。


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