山形県米沢市出身。元会津藩士の高田休烈の5男として生まれる。兄(3男)に裁判官・静岡地方裁判所浜松支部長・大審院判事を務めた高田豊(同墓)がいる。
1921(T10)東京帝国大学英法科卒業。同年、東京府庁に入庁。'23石川県警察部に出向していた時に、高田耕甫(たかだ こうほ)の筆名で「東京市歌」を作詞し、東京市懸賞公募に応募して一等入選となる。山田耕筰が曲をつけ、日本コロムビアから発売されたSPレコードでは「東京市民歌」の表題が使用された('43東京市廃止のため終了となるも、東京都では都歌に準ずる扱いで継承)。
関東大震災の後に帰京、文部省に入省し学務局農業教育課長に就任。その後、社会教育局青年教育課長、資源局官房文書課長、宗教局長、督学官等を歴任。'38(S13)文部省退官。'41長崎高等商業学校校長に就任したが、翌年在任中に急逝。享年46歳。没2日後の1月7日付の贈位により従四位に叙せられる。
<人事興信録> <東京都生活文化局 文化振興HPなど>
【東京市歌】
制定年 大正15年
高田 耕甫 作歌
山田 耕作 作曲
一、
紫(むらさ)にほひし 武蔵(むさし)の野邊(のべ)に
日本(にほん)の文化(ぶんか)の 華(はな)さきみだれ
月影(つきかげ)いるべき 山(やま)の端(は)もなき
むかしの廣野(ひろの)の おもかげいづこ
二、
高樓(たかどの)はるかにつらなりそびえ
都(みやこ)のどよみは うづまきひびく
御座(みくら)のもとなる 大東京(だいとうきょう)の
のびゆく力(ちから)の 強(つよ)きを見(み)よや
三、
大東京(だいとうきょう)こそ わがすむところ
千代田(ちよだ)の宮居(みやい)は われらがほこり
ちからをあわせて いざわが友(とも)よ
われらの都(みやこ)に かがやきそへむ
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