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おくの けんいち

奥野健一

おくの けんいち

1898.11.18(明治31)〜 1984.5.6(昭和59)

昭和期の弁護士、最高裁判事

埋葬場所: 25区 1種 44側

 和歌山県田辺市出身。1923(T12)東京帝国大学法学部法律学科卒。 仙台地裁所長、大審院判事、参議院法制局長などを歴任後、'56(S31)から'68まで最高裁判事。 「ハト派」と呼ばれ、柔軟な法律論を展開、砂川事件判決'59(S34)では「日米安保条約には日本の司法審査権は及ばない」 とする多数意見に対し「司法審査権は及ぶ」との意見を述べた。 また「疑わしきは罰せず」の原則を重視し、死刑、無罪と二転三転した八海事件では'68(S43)、第二小法廷裁判長として「無罪」を言い渡している。'69(S44)勲一等旭日大綬章。

<ジャパンWHO was WHO 物故者事典1983-1987>
<MATSU様より情報提供>


*墓所内にある墓石に『勲一等旭日大綬章』の文字が刻まれている。


【砂川事件】
 正式事件名は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件」。別名は「砂川闘争」。
 1957.6.27(S32)東京都北多摩郡砂川町(立川市)にあるアメリカ軍立川基地拡張問題で、砂川強制測量が行われたことが発端。 7月8日東京調達局が再測量を行った際に、反対派と警官隊が衝突。アメリカ軍基地の立ち入り禁止区域に立ち入ったとして、反対派の7名が刑事特別法違反で起訴された事件。
 1959.3.30(S34)第一審判決は、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり違憲である。 したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した。検察側は直ちに上告。
 1959.12.16最高裁判所判決は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。 したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。 他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し原審に差し戻した。 結果、1963.12.7(S38)被告人の有罪(罰金2,000円)が確定した。
 砂川事件は、安保体制と憲法体制との矛盾を端的に示す政治的に極めて重要なものであることから大いに論議を呼び、特に最高裁判所の判決に対し強い批判が浴びせられた。 日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。 その後、米軍は立川基地から横田基地(東京都福生市)に移転することが決まり、1977.11.30(S52)立川基地は日本に全面返還された。
 砂川事件が起きた場所には「平和之礎」の碑が建つ。

<10大ニュースに見る戦後50年>
<日本史辞典など>


【八海事件】(やかいじけん)
 1951.1.25(S26)山口県熊毛郡麻郷村八海(田布施町)で老夫婦が惨殺され、強盗殺人容疑で被害者の近くに住む当時21歳のAが逮捕された。 Aの供述により、他4人の共犯者が起訴された。裁判では単独犯行か複数犯行かで争われ、1968.10.25最高裁で4人が無罪となった。
 事件が混乱した背景は、当初より警察側が複数犯と決め付け、容疑者Aに対し、「共犯の名前を言わないと死刑だ」と拷問を繰り返した結果、死刑回避のために仲間の名前を言ってしまったことに始まる。 警察はAの虚偽の供述により他4人を逮捕し、4人に対しても拷問を加え供述を強要し、他4人が従犯とする供述調書を作成、その旨を報道機関に公表した。
 裁判では、Aは自らの起訴事実を認めたが、他4人は捜査段階で警察官に拷問され、虚偽の供述をされたことを訴え、事件に関しても無実を主張した。 加えて、Aは無期懲役が確定後、刑務所から自らの単独犯である上申書を17通、最高裁判所に送っていたが、すべて刑務所職員が破棄していたことが後に判明した。
 なお、濡れ衣を着せられた4名は、'52.6.2山口地裁にて主犯とされた人物に死刑、他3人を無期懲役と判決。 次いで'53.9.18広島高裁では、主犯とされた人物を死刑、他を無期懲役、懲役15年、懲役12年と判決。 '57.10.15最高裁は審理を高裁へ差し戻し、'59.9.23広島高裁(2次)にて、この事件をAの単独犯と認定し、他4人を無罪判決をした。 4人の身柄は8年8ヶ月ぶりに釈放された。しかし、検察が上告。'62.5.19最高裁は審理を高裁へ差し戻す。 '65.8.30広島高裁(3次)は一転、第一次と同じく、主犯とされる人物に死刑、他を懲役15年、懲役12年の判決をした。 4名は無実を主張し上告。'68.10.25最高裁はこの事件をAの単独犯行と判断し、他4人に無罪判決をして、判決が確定した。
 この事件は書物や映画化などもされ、裁判の冤罪性は多くの国民に認知された。 また、4人の被告人は8年8ヶ月間の身柄拘束と、無罪確定までの17年9ヶ月間の多大な精神的苦痛・不安、社会的不利益を受けたことにも注目された。 更に、警察による見込み捜査の問題、Aの上申書の無視、7回の判決と有罪→無罪→有罪→無罪と事実認定が変遷し、事件発生から確定判決まで17年9か月の時間がかかったことに対しても、多くの国民や報道機関から非難された。

<10大ニュースに見る戦後50年>
<八海事件の真相 前坂俊之など>


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