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はら ろくろう

原 六郎(進藤俊三郎)

はら ろくろう
(しんどう しゅんさぶろう)

1842(天保13)〜 1933(昭和8)

幕末の志士、明治・大正期の銀行家、実業家

埋葬場所: 7区 1種 5側 9番

 但馬国佐中村(兵庫県朝来市)出身。鎌倉時代より続く大地主の第22代目当主の進藤丈右衛門長廣の六男四女の末っ子として生まれる。幼名は進藤俊三郎。通称は長政。生野の挙兵以降は原六郎と改名する。
 11歳頃より池田草庵の私塾の青谿書院に入門。同門には後に近代眼科の父と称される河本重次郎(9-1-3-8)らがいる。尊王攘夷論が叫ばれ感化されるが、師である池田草庵は学問に政治活動は邪道という考えであったため、1862(文久2)青谿書院を脱退し、北垣晋太郎(国道)らと但馬農兵を組織する。
 翌年、生野義挙(生野の変:尊王攘夷派が挙兵した事件)に参加し、武器調達を担当するが壊滅したことを知り、京都鳥取藩邸の松田正人の庇護を受けた。以来、松田の選んだ「原六郎」を名乗り、桶町千葉道場に潜伏していたところ坂本龍馬らと友人になる。1864(元治1)桶町千葉道場や長州藩邸に匿われていたが、さらに幕府の探索が厳しくなったため海路で長州に入る。1865(慶応1)高杉晋作の紹介により、長州藩の遊撃隊に入り、四境戦争では高杉に従い小倉口の戦い(小倉戦争)に参加。翌年、普門寺塾(三兵塾)を母体に山口に創設された陸軍学校明倫館に入学し、大村益次郎から洋式陸軍の手ほどきを受けた。その後は長州藩の軍に属し討幕運動にかかわる。
 1868 戊辰戦争では鳥取藩に附属する形となった丹波国桑田郡山国郷の志願農兵隊山国隊の司令士として、鳥取藩士の河田左久馬(河田景與:11-1-12)、千葉重太郎らとともに、関東、東北各地を転戦。特に上野戦争(彰義隊の乱)で、覆面部隊として上野山に潜入し官軍を勝利に導く功労をあげる。その後、原は官軍に帰順した旧幕兵で構成された帰正隊隊長として、東北から蝦夷地までを転戦し、榎本武揚や土方歳三らが立てこもった五稜郭の戦い(箱館戦争)までを戦い抜いた。
 1869(M2)鳥取藩士に取り立てられた。鳥取藩兵の洋式化に従事。さらに、新政府に差し出された鳥取藩軍に入り、第1回天覧閲兵式には歩兵大隊長として参加、「兵の指揮、誠に見事也」と絶賛された。
 維新後、1871海外官費留学生として渡米。今後の日本の発展は軍事よりも経済だと痛感し、官費が打ち切られてもアメリカに留まり、イェール大学に入学して経済学や金融額を学ぶ。更に、1873英国に渡り、キングス・カレッジで経済学・社会学・銀行学を修め、1877(M10)帰国した。
 1878 旧鳥取藩主の池田家(鳥取池田侯爵家墓所は以前は多磨霊園にあったが鳥取県鳥取市立川町にある大雲院に移転改葬)を中心にして第百国立銀行創立し頭取。1880東京貯蓄銀行を創立し頭取。更に、1883大蔵大臣の松方正義の要請を受け、破綻危機に陥っていた横浜正金銀行の第4代頭取に就任した。
 横浜正金銀行では、不良債権や損失の調査確定、銀貨と紙幣の交換差益で補填し、1885には欠損を解消。1887資本金を600万円に倍額増資し外国為替の取組にも着手して業務拡大をはかった。正金銀行を外国貿易業務に特化させるため、松方らと協議し、勅令第29号横浜正金銀行条例の制定を実現させた。これにより外国為替システムが未確立で貿易面で日本が不利益であった状況を改革することに成功。加えて日本銀行(1882創業)との関係を、正金銀行が外国業務を担当することで整理し、日本銀行と正金銀行とが両輪となって日本の財政と金融を牽引していく基礎を確立した。この7年にも及ぶ経営再建を成就させたことで、原は横浜正金銀行の中興の祖と呼ばれた。なお、正金(しょうきん)とは現金のこと。横浜正金銀行(1879国立銀行条例により設立)は太平洋戦争後(1946)に閉鎖機関に指定され、東京銀行(三菱UFJ銀行)に業務を引き継ぎ解散した。
 この他に、日本・台湾・勧業・興業各銀行創立委員を務め、わが国銀行業確立に功績を残した。一方、富士製紙・横浜船渠の社長、山陽・東武・北越各鉄道会社、東洋汽船・帝国ホテル各社の重役を歴任。国産の先端科学技術研究・教育の充実に関しての支援や寄附も熱心であった。渋沢栄一、安田善次郎、大倉喜八郎、古河市兵衛と共に「五人男」と称され、実業界に重きをなした。
 '20(T9)東武鉄道取締役を退任し、第一線から引退。晩年は郷里の村立山口小学校に講堂と体育館を兄の進藤丈右衛門長厚とともに寄附。少年期に学んだ池田草庵の私塾の青谿書院の財団法人化のための資金を北垣国道とともに寄附。生野義挙で敗れ21歳で自刃した同志の南八郎(河上弥市:第2代奇兵隊総監)たち17名を祀る招魂社(山口護国神社:兵庫県朝来市)建立のために多額の寄附をし、完成式に出席した。この神社は明治維新から昭和に至るまでの地元戦没者を祀る神社へと発展し、境内にある石碑の揮毫は山陰道鎮撫総督であった西園寺公望(8-1-1-16)の書である。享年90歳。

<幕末維新江戸東京史跡事典>
<コンサイス日本人名事典>
<原六郎翁伝>
<横浜正金銀行のあゆみ>
<但馬の百科事典など>


銅像

*墓石正面「原家之墓」。墓所内には椅子に腰かける原六郎像が建つ。妻は造林王の土倉庄三郎の長女の富子(同墓 1869-1957)。娘(二女)の多喜(同墓)の娘婿として実業家の原邦造(同墓)が家督を継いだ。

*米国留学時代に知り合った新島襄とは旧友であり、同志社大学設立の際に多額の支援をしている。このご縁で、1888正金銀行頭取在任中に、造林王の土倉庄三郎の長女の富子と結婚。この時、六郎は45歳、富子は20歳。富子は同志社女学校出身で、土倉は新島襄の後援者。京都・祇園の中村楼で、新島の司式、京都府知事・北垣国道の媒酌により結婚式を行った。原は富子夫人の影響もあり晩年にキリスト教の洗礼を受けた。なお、土倉庄三郎の次男で富子の弟はカーネーションの父と称された土倉龍治郎(16-1-20)で、龍治郎の長男はカルピス社長の土倉冨士雄(16-1-20)。富子の妹の政子は伯爵で外務大臣を務めた内田康哉(11-1-1-6)、糸は医者の川本恂蔵、小糸は同志社病院長の佐伯理一郎にそれぞれ嫁いだ。

*東京都品川の御殿山の旧邸跡は、1979(S54)曾孫の原俊夫が開放し、財団法人アルカンシェール美術財団を母体として現代美術を中心とした「原美術館」として開館。御殿山庭園にはガラスケースに覆われた白亜の大理石の原六郎像が建つ。群馬県伊香保温泉の伊香保グリーン牧場内に原美術館別館としてハラミュージアムアークも開館した。なお、品川の御殿山の敷地は、1892(M25)原六郎が西郷従道(10-1-1-1)から譲り受けた場所で、現在の原美術館の建物(「レ」の字型で有名)は、1938(S13)に建築家の渡辺仁が設計し、原邦造の邸宅として使用(S13-S20)されるも、敗戦後にGHQに接収され、その後、外務省公館やフィリピンやセイロン大使館などで活用され、10年間ほど廃墟となっていたが、曾孫の原俊夫に戻り美術館へと開放した経緯がある。2020.12(R2)老朽化のため閉館することが決まった。


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