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こうもと じゅうじろう

河本重次郎

こうもと じゅうじろう

1859.9.12(安政6.8.15)〜 1938.4.4(昭和13)

明治・大正・昭和期の日本初の眼科学者

埋葬場所: 9区 1種 3側 8番

 但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)出身。豊岡藩の京極家に従士として仕えた河本齋助の長男として生まれる。号は光堂。
 藩校稽古堂で池田草庵に学ぶ。同門に進藤俊三郎(原六郎:7-1-5-9)らがいた。1871(M4)廃藩置県で藩校の閉鎖に伴い、13歳の時に豊岡出身の猪子止戈之助(いのこ しかのすけ)、和田垣謙三(わだがき けんぞう)と共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京。横浜在住の叔父の中江種造のはからいで横浜にあった高島学校のドイツ学科に通学する。普仏戦争でプロシアが大勝利を収めた情報を得、ドイツ語を学べば役立つと思ったのが動機である。その後、叔父が大蔵省を辞して東京に移ったのに伴い、東京外語学校に移り、ドイツ語を主体に地理、歴史、数学を学んだ。
 1974(M7)藤堂屋敷にある東京(下谷和泉橋)に行き、ミユルレル・ホフマンや三宅秀の居る中で体格検査を受けたが重度の近視のため入学ができなかった。翌年、体格検査なしでランゲによるドイツ語のみの試験を受け東京医学校予科に入学することができた。1877 東京医学校は東京帝国大学医学部に改称される。翌年、予科から本科に入り、シュルッツェやスクリバに学ぶ。1883(M16)東京帝国大学医学部を首席で卒業。同期に北里柴三郎がいた。卒業後は同大学のスクリバの外科学教室の助手となる。1884 加藤香芽子(当時19歳)と結婚。
 この時期、ドイツ留学から帰国し、初代眼科教授として渇望されていた梅錦之丞が同大学で教鞭をとっていたが、1年ばかりで結核に倒れ逝去してしまう。すると突然大学から「おまえは、ドイツに行って、眼科を勉強してこい」と外科学から眼科学への転向を命ぜられた。1885.12(M18)文部省留学生としてドイツに渡る。フランス汽船ダイナス号の船上で「何の因果で眼科なんかやらなくてはいけないのか」と思ったという。
 ドイツのフライブルグ大学のマンツ教授に師事。その後、ヴュルツブルグ大学、ベルリン大学に留学し眼科学を学ぶ。また北欧から南欧にかけて歴訪して治療や研究の現場を視察。当時の世界的権威であったヒルシュベルグ、ウイルヒョウ、パナス、ウエッケル、ランドルトなどと交流した。この頃は眼の局所麻酔や眼の有効な蒸気消毒が確立され、世界の最先端の眼科手術学がドイツで行われていた。これらの最先端手術などを習得し、日本初の眼科学者となる。
 1889 帰国し、東京帝国大学医学部教授に任じられ、新設された眼科学教室の初代主任教授に就任した。なお欧米留学中に妻の香芽子がキリスト教に感化し入信していたことを知り反対して自粛させている。
 1891 眼科の分野で初めて医学博士を受ける。1897 日本眼科学会を設立し初代会長に就任(〜1925)。ドイツの医学雑誌に多彩な日本の眼疾患の論文を発表したほか、日本で「日本眼科学会雑誌」を刊行、また『眼科学』『検眼鏡用法』『全身眼病論』なども著した。加えて様々な診療、検査の器具を発表し、多様な手術を執刀した。1905 日露戦争においては、陸軍衛生生幇助員として傷病兵の診療を行った。
 '07 約1年間、再度ヨーロッパを歴訪。帰国後、妻の香芽子が反対して以降自粛していたキリスト教の伝道活動を再開していたが徐々に理解を示すようになった。
 '16 勲1等瑞宝章受章。'22(T11) 東京帝国大学を停年退官し名誉教授。後継を石原忍に委ね、在任期間33年にわたる教授職を勤め上げた。九百名超といわれる膨大な数の門弟を育成した。多磨霊園に眠る門弟は桐淵鏡次(9-1-1-6)、小川剣三郎(13-1-21)、井上通泰(19-1-12)、中泉行徳(8-1-7)、長谷川俊明(14-1-9)らがいる。教授の傍ら、河本眼科病院を開院しており、晩年は院長として活動。こちらでも三百数十名といわれる多数の弟子を育てた。
 日本眼科の学術的貢献を広く世界に知らしめる活躍を積極的に行い、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展に大きく寄与した。「日本近代眼科の父」と称される。持病の喘息発作が憎悪した後、伊豆熱海で療養中、病状が急変し、家族が駆け寄る中、静かに臨終を迎えた。正5位 従3位。享年78歳。

<河本重次郎傳>
<「河本重次郎 回顧録>
<但馬人物ものがたり>
<20世紀日本人名事典>
<「日本近代眼科の始まり─河本重次郎とその時代─」谷原秀信 など>
<ご子孫様より情報提供>


墓所

*墓石前面「河本重次郎 / 夫人 香芽子 墓」、左面に「昭和十三年十二月四日建之」、裏面は「東京帝国大学名誉教授 河本重次郎 安政六年八月十五日 於 但馬豊岡生 昭和十三年四月四日 於 伊豆熱海歿」と刻む。隣りに「妻 香芽子 慶應二(一八六六)年七月十三日 昭和三十一(一九五六)年二月三十日 於 東京歿」と刻む。

*墓所左側に洋型「河本家墓」が建つ。左面「昭和十三年十二月四日建之」。裏面は墓誌となっており、重次郎の長男の河本重雄(M24.1.16歿・行年2才)から刻み、雪(S55.4.29歿・行年81才)、純一(S55.8.15歿・行年59才)、いつか(1989.12.19歿・行年8才)、幸子(2009.7.27歿・行年85才)が刻む。



第369回 日本の近代眼科の始まりはこの人物から「日本近代眼科の父」
河本重次郎 お墓ツアー 妻はキリスト教伝道家 河本香芽子


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