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きりぶち きょうじ

桐淵鏡次

きりぶち きょうじ

1871.6.15(明治3)〜 1931.3.5(昭和6)

明治・大正・昭和期の眼科医

埋葬場所: 9区 1種 1側 6番

 沼津出身。医幕臣の奈佐政和の4男として生まれる。兄の奈佐忠行は東京高等商業学校教授。旧姓は奈佐。1895.10(M28)先代の桐淵光斎(1836-1895.9.15)が亡くなり跡を継ぐため養子となる。桐淵眼科病院の創始者は光齋の兄の桐淵道斎であり、その後、光斎が継いでいだ。
 1895 東京帝国大学医科大学卒業。桐淵眼科病院の後継者になるため、卒業後直ちに河本重次郎(9-1-3-8)教授に師事して助手となり眼科を修めた。1897 私費でドイツに留学し、ベルリン及びライプツィヒ大学で眼科研究。1900 帰国して下谷練塀町の桐淵眼科病院を継承し医院長に就任した。1901.6 「電撃に因する白内障及爾他の眼疾患に就いての実地試験」の論文により母校から医学博士。日本眼科学会創立以来の評議員を務めた。
 桐淵眼科病院は鏡次の代になり名声は一段と喧伝され、一日三百人が来院するときもあった。しかし長男の光一が医者の道に進まなかったため、桐淵眼科病院は鏡次の後室の管理となり、東大出身の武田隆などによって続けられていたが、病院は戦災で焼失し再建されなかった。

<わが銀海のパイオニア>
<人事興信録など>


墓所

*墓石は和型「桐淵家之墓」。右側に墓誌があり戒名は正眼院殿円覚智鏡居士。享年は61歳と刻む。妻は みゆき。墓誌には二人しか刻んでいない。墓所右側に「醫學博士桐淵先生之墓碑銘」の大きな碑が建ち、曹洞宗管長大本山永平寺六十七世 北野元峰の筆であり、碑銘は帝国学士会員 東京帝国大学名誉教授 従三位 勲二等 文学博士 市村謙次郎の撰である。

*桐淵鏡次と みゆき は4男2女を儲ける。長男の桐淵光一(M29.11-:光一の妻は美壽・田中久長の娘)、二男の誠治(M43.2-)、三男の達次(T2.6-:達次の妻はウメヲ)、四男の精之助(T7.1-)、長女の淑子(T11.7-)、二女の信子(T14.11-)がいる。光一の長男で鏡次の孫にあたる桐淵光智(H18.7.25歿)は国立がんセンター病院の初代眼科医長として日本で初めて体系的に網膜芽細胞腫の眼球保存療法に取り組んだ人物。また桐淵眼科病院の創始者の桐淵道斎の系統で続いていた桐淵眼科病院にも関わる。


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