奈良県出身。祖父の土倉庄三郎は吉野林業の先駆者の林業家で日本の造林王。父は台湾での実業家・カーネーションの父と称された土倉龍治郎(同墓)、長男として生まれる。伯父に銀行家の原六郎(7-1-5-9)、叔父に外務大臣の内田康哉(11-1-1-6)がいる。
成城高等学校時代の級友に作家になる大岡昇平(7-2-13-22)がいた。1932(S7)京都帝国大学経済学部卒業。父の龍治郎がカルピス誕生や三島海雲の支援などで縁があったカルピス株式会社に入社。'67カルピス株式会社の副社長就任。'70社長に就任。'75.2.27会長に就任。その後は、カルピス食品工業相談役。
冨士雄の信条は「企業でも政治でもあるいは文化活動でも、すべて倫理に根ざした心の豊かさということに立脚していなければならない」(カルピスの戦略)と掲げていた。カルピスの単品経営の脱却、企業体質の改善、生産体制の合理化、本格的研究施設の建設など、新しい導入に着手した。また、ジャネット・リンなど外国人タレントを宣伝広告に起用するなど企業イメージ構築に大きく貢献した。
カルピス社は'69〜'79(S44-S54)「カルピスまんが劇場」(途中、「カルピスこども劇場」「カルピスファミリー劇場」に名称変更有り。
'79以降は「世界名作劇場」と呼ばれている)の1社提供の単独スポンサーとしてアニメーション制作に携わっている。カルピス劇場の基本理念は「家族が一緒に見るものでなくてはならない」という考えから、当時流行のアクションものではなく、世界の名作にこだわった。
この決定権は冨士雄である。なお、カルピス劇場は、「どろろと百鬼丸」(1969)、「ムーミン」(1969-70)、「アンデルセン物語」(1971)、「ムーミン(新)」(1972)、「山ねずみロッキーチャック」(1973)、「アルプスの少女ハイジ」(1974)、「フランダースの犬」(1975)、「母をたずねて三千里」(1976)、「あらいぐまラスカル」(1977)、「ペリーヌ物語」(1978)が放映された。
'75放映「フランダースの犬」最終場面、原作ではネロが聖堂に向かったのは自殺のためで死因は餓死であったが、敬虔なクリスチャンからの博愛精神から冨士雄は「死は終わりではなく、天国への凱旋である」と考え、ネロとパトラッシュが教会で天使が舞い降りて天へ召される有名な場面となった。