奈良県吉野郡大滝村(川上村大滝)出身。吉野林業の先駆者の林業家で日本の造林王の土倉庄三郎の次男として生まれる。父は板垣退助ら自由民権運動の資金援助者として著名であり、父と交友関係がある新島襄と出会い、その縁で同志社に入学して、キリスト教信者となった。1895(M28)同志社普通科を卒業後、軍属の資格で台湾に渡る。
日本統治下の台湾において林業、樟脳採取事業で成功。その背景は多難であり、1897「植林経営意見書」「植林貸下許可願」を提出したが却下され、修正版の「林野貸下許可願」を再提出してやっと認められる。
まず1万町歩300年の借地権を得て、首狩り族でもある先住民の抵抗のもと植林を進める一方、他の部族との融和を図り、信頼を得た上で植林事業を推進した。
また、当時日本では電気事業が盛んに行われていることもあり、1902冬、台湾の工業化を推進するために、初の本格的な発電事業を展開。水力発電所を設け台北市内に電力供給の目的で、台湾で初めての水力発電会社である台北電気株式会社を設立した(1903)。
社長に就任。専務は津下紋太郎(12-1-10)。深坑庁文山堡亀山に台湾で最初の水力発電所の「亀山水力発電所」を建設。これら台湾での事業により、林業・水力発電の先駆者(台湾水力発電の父)として歴史に名を残す。
'04植林事業を続けながら台湾採脳拓殖合資会社を継承、社名を台湾製脳合名会社に変更して、クスノキから樟脳の製造する大規模な製脳事業に着手した。
製脳窯450基、台北文山地区最大の製脳業者と称され、製脳工や作業主任ら960人を採用、従業員数は2000余人にあがった。'09実家の土倉家が経営失敗により財政が傾き始め、台湾での事業を財閥の三井合名会社に譲渡し、本家を助けるために帰国した。しばらく、家族と神奈川県大磯で静養。
'10実業界に嫌気がさしたことと、もともと植物に興味があったことから、東京大崎町に温室を建設し、カーネーションの栽培を始める。
近代的栽培技術や体制を構築し、新しい品種を生み出し日本にカーネーションを定着させた。日本におけるカーネーション栽培の先駆者として「カーネーションの父」と称されている。
'17(T6)カルピスの前身のラクトー株式会社を三島海雲が設立する際に土倉が尽力。'19三島海雲と片岡吉蔵が日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の開発をしていた際に、片岡の思い付きで醍醐素(脱脂乳を乳酸菌で発酵させた飲料)に砂糖を混ぜて2日程放置したところ、偶然に美味しい飲料ができたため、三島が土倉に持参し試飲させたところ、土倉はその美味しさに驚き、商品として売り出す際の事業資金の援助をした逸話がある。
'32(S7)大日本カーネーション協会を設立し、会長に就任。'36『カーネーションの研究』を犬塚卓一と共著した。世田谷区池尻の自宅で逝去。享年68歳。葬儀は犬塚卓一ら大日本カーネーション協会の会員がカーネーション葬としておくられた。
姉の富子は銀行家の原六郎(7-1-5-9)に嫁ぎ、妹の政子は伯爵で外務大臣を務めた内田康哉(11-1-1-6)、糸は医者の川本恂蔵、小糸は同志社病院長の佐伯理一郎にそれぞれ嫁いだ。
子は4男4女を儲け、長男の土倉冨士雄(同墓)は戦後のカルピスの社長・会長を務めた。末子の土倉正雄は木村化工機社長を務めた。正雄と妻の宣子による、夏聖禮ら『百年蒼桑−土倉龍次郎と台北亀山水力発電所』の翻訳書(2006)がある。次男の松生の子(孫にあたる)幹雄は『祖父土倉龍次郎』(2004)を著した。
<本庄孝子『百年滄桑(そうそう)』からみる台湾水力発電の父・土倉龍次郎の足跡> <宇田花づくり研究所 宇田明 「カーネーションの父土倉龍次郎、カーネーションの母犬塚卓一」> <実録創業者列伝II 三島海雲など>
【カーネーション】
原産は南ヨーロッパ及び西アジアの地中海沿岸といわれている。名前の由来には諸説あり、肉(ラテン語:carn)の色の花という説、シェイクスピアの時代に冠飾り(coronation flower)に使われこれが転訛したもの、戴冠式を意味する語のコロネーション(coronation。corona:ギリシャ語で王冠の意味)が訛ってカーネーションとなったとの説などがある。
日本には『地錦抄録』(1733)によると、徳川家光の時代にアンジャベルまたはアンジャという名でオランダより伝来、寛文年間に再伝来し14種品種が紹介、宝暦年間の『絵本野山草』(1755)で数百種の品種のカーネーションをナデシコと紹介しているが、江戸時代には日本に定着しなかった。
1909(M42)米国・シアトルに在住していた澤田氏が帰国の際にカーネーションを持ち帰り、東京にて温室を建て栽培を始めたが、栽培法に精通しておらず、生産化まで至らずに事業中途で病没(1912)してしまった。
その後を引き継いだのが土倉龍治郎である。ちょうど台湾から東京に帰朝し、上大崎(目黒)に菜花園という温室を建設してカーネーション栽培に着手した。
種子はニューヨークのヘンダーソン社や横浜正金銀行シアトル支店長をしていた弟の土倉四郎、駐米全権大使だった内田康哉夫人であった妹の政子により輸入してもらった。
'21(T10)皇太子であった昭和天皇が英国へ渡航された際に、ある手蔓によって、オールウッド商会に直接交渉してもらい、カタログから優品と思われる12品種を選び購入している。
栽培方法もわからないまま手探りで研究を続け、軟弱な茎を克服するためにアメリカ式の軒高が高い温室の建設で解決し、スパイダー(アカダニ)、スリップスは根気強く水で洗い流した。カーネーションを枯らさずに育て、立派な花を咲かせ、出荷するということは、当時は最先端の高度な技術であった。
苦労を乗り越え、栽培方法を確立し、そのカーネーション栽培の技術を広く教え、品種改良にも取り組んだ。なお、土倉はわが国で初めての苗生産者でもある。
苦労して確立した栽培技術を秘匿とせず公にし、カーネーション生産の拡大に力を尽くしたことから、「カーネーションの父」と称されるようになった。
1920(T9)下目黒に移転し、大規模な温室を経営、カーネーション生産を事業を展開、花卉産業を成功させた。更に、1926(S1)神奈川県高津町溝口へ温室を移転した。これが川崎市のカーネーション栽培の起源である。
1931(S6)土倉の呼びかけにより、玉川温室村生産者などが集まり相談した結果、翌年、大日本カーネーション協会が設立された。英米のカーネーション協会とも提携。土倉は会長、副会長は犬塚卓一が就任。主な事業は、優良種苗の会員への配布、品評会の開催など。
ちなみに、母の日になぜカーネーションを贈るようになったのかの理由は、1905.5.9アメリカのアンナ・ジャービスの母が亡くなり、母親を偲ぶため、教会にたくさんの白いカーネーションを持ってきたのが始まりとされる。
キリスト教では、カーネーションは母親が落とした涙のあとに生えた花だといわれ、母親の愛情を表すものだと考えられている。これにより、1914アメリカ大統領のウィルソンが5月の第2日曜日を母の日と制定。この習慣が日本にも伝わった。
現在、カーネーションの市町村別生産額日本一は、愛知県西尾市一色町地区である。
<雑学:母の日にカーネーションを贈る理由> <「カーネーションの父 土倉龍次郎」など>
*墓石は洋型「土倉家之墓」。左側に墓誌があり、「人基督に在くるは新に造られたる者なり ○は去りて皆新しく作なり」(○は解読できず)と刻む。
これはコリント後書五・十七『人もしキリストに在らば新たに造られたる者なり。古きは既に過ぎ去り、視よ新しくなりたり』のことである。墓誌には、名前、享年、没年月日が刻む。龍治郎の享年は六十九歳と刻む。
*「土倉竜次郎」・「土倉龍次郎」と書かれている文献も散見したが、墓誌に刻む土倉龍治郎で統一します。
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