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つげ もんたろう

津下紋太郎

つげ もんたろう

1870.4.7(明治3)〜 1937.9.20(昭和12)

明治・大正・昭和期の実業家

埋葬場所: 12区 1種 10側

 備前(岡山県)出身。同志社普通学校を経て、1899(M32)奈良県吉野の山林地主土倉家の台湾事業部総支配人となった。 のち、日本製鉄、日本石油(宝田石油と合併)の専務、カルピス製造会長などを務めた。享年68歳。実業家の津下綱平(同墓)は子。
 1917(T7)日本石油専務時代に、旧友で後にカルピスの生みの親となる三島海雲に脱脂乳を利用した乳酸菌入りのキャラメルの商品化の話を相談され、出仕に協力し、三島はカルピスの前身であるラクトー(株)を設立したが、事業に失敗している。 しかし、三島はめげずに脱脂乳の飲料の製品化に取り組みカルピスを誕生させた。旧友で支援をしてくれた紋太郎をカルピス製造の会長に迎えたのである。

<現代日本人名録 物故者編など>
<森光俊様より情報提供>


*墓石は洋型「津下家墓」。左に墓誌が二つ。右側の墓誌には津下紋太郎、長男で津下統一郎(1902-1997.5.20)、統一郎の妻の満寿子(1905-2002.11.24)、二人の子の津下綜一(1929-2011.2.4)らが刻む。 左側の墓誌には、津下綱平、綱平の妻は幾子、長男の素男が刻む。統一郎が建之した右側に墓誌には「父紋太郎の永眠に因り此地を墓域と定め、昭和十四年九月在岡山県児島郡藤戸町大字天城墓域より祖先の霊を移して之を此処に祀る。」と刻まれている。

*津下紋太郎は日本製鉄、日本石油の専務、カルピス製造会長を務めた実業家である。津下紋太郎の子に、津下統一郎と津下綱平がいる。 長男の津下統一郎は戦後解散期の三井物産の長であり、富岡光学(京セラオプテック)社長・会長、大沢商会顧問、同志社理事、玉川学園理事、日本キリスト教奉仕団理事長などで活躍した実業家。津下綱平も日本ゴム工業(オカモト)やカルピス食品工業で副社長、取締役などを務めた実業家である。 統一郎の妻の満寿子は大沢商会社長で貴族院議員の大沢徳太郎の三女である。統一郎と満寿子の間に津下綜一。綜一はアラビア石油常務などを務めた。 津下綱平の妻は幾子であり、その間に長男の素男、長女の綏子(やすこ)。綏子は内閣総理大臣を務めた政治家の羽田孜に嫁いだ。その間に生まれた羽田雄一郎は衆議院議員。

*1902冬、台湾の工業化を推進するために、初の本格的な発電事業を展開。水力発電所を設け台北市内に電力供給の目的で、台湾で初めての水力発電会社である台北電気株式会社を設立した(1903)。社長に土倉龍治郎(16-1-20)、津下紋太郎が専務に抜擢された。深坑庁文山堡亀山に台湾で最初の水力発電所の「亀山水力発電所」を建設など尽力。


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