因幡鳥取出身。因幡鳥取藩士の河田介景の子として生まれる。名は初め祺景。通称は佐久馬、号を研田。河田家は代々鳥取藩の伏見留守居役を務める家であり、1851(嘉永4)家督を継ぎ、伏見留守居となる。若い頃から一刀流剣術を学び、大石進種昌に入門して大石神影流も修得し、鳥取藩で剣法の達人と称された。
1863(文久3)京都留守居を兼務。長州藩の桂小五郎(後の名を木戸孝允。その養子は木戸孝正:18-1-3)らと交流し、尊王攘夷運動に関与。水戸藩主・徳川斉昭の5男で鳥取藩主の池田慶徳も尊攘派に傾倒。この頃、京都に集結していた尊攘派の志士は、真木和泉らが計画する攘夷親征の大和行幸を主張し、朝廷内の過激公卿である三条実美(4男の河鰭実英:21-1-10)らと連携して活動していた。しかし、孝明天皇は尊攘過激派の行動を快く思わず、薩摩藩・会津藩の兵力を背景に「八月十八日の政変」が起こされ、長州藩および三条ら尊攘派公卿は京都から一掃された。鳥取藩内では河田を中心に攘夷親征運動の機運が盛り上がっていたが、同藩の公武合体派から危険視され対立。河田は「八月十八日の政変」の前日の17日に仲間と共に尊攘を唱え藩論の統一を目指し、本圀寺に宿泊中の同藩で公武合体派(佐幕派)重臣の黒部権之介ら4人を襲撃し、3人を殺害、1人を自刃させた(本圀寺事件)。
1864(元治1)坂本龍馬らと蝦夷地開拓を計画するが頓挫。長州藩が禁門の変を起こし朝敵となると、長州藩に通じたとして処罰され、藩地へ送られて幽閉された。1866(慶応2)第二次幕長戦争で長州軍に幕府側が大敗し、浜田藩領が攻略されると、河田は同志と共に脱藩し長州藩へ逃れた。
1867(慶応3)王政復古の大号令により朝敵であった長州藩が宥免され、倒幕のために長州藩兵が上京したのに伴い、河田らも鳥取に帰藩。1868戊辰戦争では東山道先鋒軍(総督は岩倉具定、参謀は板垣退助)に加わり、鳥取藩兵参謀となり、そして志願農兵山国隊の隊長も兼ねた。江戸開城後は北関東に転戦し、宇都宮城の戦いで活躍。政府軍下参謀に就任、会津戦争に従軍する。これらの活躍が認められ450石を与えられた。
1868(明治1.10.28)年号が変わり甲斐府判事に任ぜられる。1869軍務官判事、同.8 兵部大丞に転ずる。1870京都府大参事兼留守判官、弾正大忠、民部大丞兼福岡藩大参事などを歴任。1871.7廃藩置県を受け、初代鳥取群権令となった。1878元老院議官に就任。1883宮内省の道場済寧館の御用掛。1885.10.1正4位。1886.11.30勲2等旭日重光章。1887子爵を授爵。1889.11.25大日本帝国憲法発布記念章。1890.10.20錦鶏間祗候となる。1894.5.21正3位。従2位 勲1等。享年68歳。
<幕末維新人名事典> <コンサイス日本人名事典> <講談社日本人名大辞典など>
*五輪塔正面に「子爵河田景與君墓」。台座に戒名「養心院殿本覺浩然大居士」。台座の裏に「従二位 勲一等 諱 景與 季七十 明治三十年十月十二日 薨」。左側に墓誌があり、従二位 勲一等 子爵の刻みと伴に戒名、俗名、没年月日、行年が刻む。行年は70歳と刻む。妻は喜久子。他に従五位陸軍士官候補生の河田頼功、4女の河田静枝、陸軍歩兵大尉従四位勲五等功五級の河田景延、早世した3男、河田興志衛、景延夫人の河田須賀江が眠る。
*墓誌の裏面に「舊藩主 池田仲博 公ノ恩命ニ依リ青山梅窓院墓地ヨリ多磨墓地ニ改葬ス 昭和九年十一月二十日」と刻む。
*五輪塔の右側に小さい十字架を刻む寝墓石(S29建立)があり、 河田須賀江と全面に刻む。裏側に景延の妻とある。
*墓所内灯篭が二基建つが、「生野挙兵」に失敗、鳥取藩士にとりたてられ、 河田景与と共に戊辰戦争を戦い後に銀行家として活躍した原六郎(7-1-5-9)が明治31年4月1日に寄贈したものである。
*鳥取藩主の池田慶徳の墓所は以前多磨霊園にあったが、現在は鳥取県大雲院に改葬された。
【尊王攘夷(そんのうじょうい)】
『尊』は尊ぶ、『王』は天皇、『攘』は攘う(はらう)、『夷』は外国人。尊王=新たに天皇を中心とした国家をつくる。攘夷=鎖国体制の維持。よって、「天皇を尊び外国を撃退する」という意味であり、倒幕を意味しているわけではない。
第192回 鳥取の勤皇志士 初代鳥取県知事 河田景與 河田佐久馬 お墓ツアー
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