立ち小便とジェンダー 4 立ち小便に見るマイノリティの願い 座ってないで立ちあがろう |
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9 立つべきか座るべきか、それが問題だ 2002年9月に高文研から出版された「多様な「性」がわかる本 性同一性障害・ゲイ・レズビアン」は4人のGID(Gender Identity Disorder=性同一障害)の当事者と1人の当事者の母親、3人のゲイ、3人のレズビアンの手記が収められ、インターセックスについての用語解説もされているセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)理解のための優れた入門書です。 その本の中の「立ちションできたら乾杯」と題されたFTMTS(Female to Male Transsexual=女性から男性への性別再指定手術を望む人、した人)である渡辺匡代さんの手記を一部抜粋して紹介します。
この手記に限らずGIDにまつわる立ち小便≠フエピソードはしばしば見受けられます。自分のジェンダー・アイデンティティ(性自認)にかなったジェンダーをまとうことを願うFTM当事者が自分が男性性の象徴的行為として立ち小便を語るのは極めて自然なことです。 その反対にMTF(Male to Female=男性から女性へ)の場合は、学校のトイレで男の子達と並んで立ち小便することに非常な抵抗を感じ、かといって個室≠ノ入れば女みたいだと言われかねず、立ち小便が否定的に語られても不思議でありません。 さらにセクシュアル・マイノリティに対する偏見や誤解から生まれた嫌がらせ、あるいは興味本位な覗き見趣味は二つの下ネタが重なり合うトイレが舞台になりやすいのも事実でしょう。 こうした当事者の願望や苦痛の声を、吉永みち子氏は「集英社新書 性同一性障害性転換の朝(あした)」で次のようにレポートしています。
自分の身体に耐えがたい違和感を持っている場合、それを意識せざるを得ない場を避けたいと願うのも自然な感情でしょう。裸にならなければならない入浴はその気になればやめることもできますが、排泄は避けて通れぬ日常の行為です。こうした問題はインターセックスの当事者の場合にも形を変えてつきまといます。 「オシッコなんて立ってしようが座ってしようが大した違いじゃない」と何のこだわりもなくいえる人は、おおらかな人のかもしれませんがセクシュアル・マイノリティの言い知れぬ苦しみに鈍感な人であるとも言えるでしょう。 自分にとって何の問題にもならないことが、誰かにとって耐えがたい苦痛であるということに思い至れるだけの想像力は、弱肉強食の原理で動く競争社会では育たないのかもしれません。 10 マイノリティからはみだしたマイノリティ 私達は自分の興味の向くものに対してはわずかなディティールの違いまで目が行き、その一つ一つの差異が持つ価値について熱心に語ります。それは時にペットの犬の毛並みであったり、ブランドのバッグの金具であったり、ワインの産地のある年の作柄であったりします。 それを誰かが大した違いはないなどと言おうものなら、むきになって違いを強調し、それも通じないとなると「違いの分からぬツマラン奴だ」と侮蔑的な冷笑を浮かべることさえあります。 そしてそうした「こだわり」を持った人の多くは、自分の関心から外れたものの存在に気付かぬ自分の鈍感さに平気でいられるばかりか、誰かが目の前で手助けを求めていても驚くほど冷淡に「無視」をすることができるのです。 一方、身近な人々との関わりを大切にしながら小さな世間に安住している善良な人々がいます。その人々は「自分がされて嫌な事は相手にしない、自分がされて嬉しい事はできるだけしてあげる」といった形で自分の善意を表わします。 それはみんなが大差ない均一な感覚や価値観を共有しているという思い込みに支えられた行動で、自分との差異を認めた場合その態度は一変します。まずはみんなに合わせることを婉曲に強要し、それがかなわぬとなればその差異の善悪や合理性を無視して自分と違うと言うただその一点で「敵対視」することすらあります。 そうしたみんな=マジョリティの無視や敵対視によってその存在を社会の隅に押し込められている人々がマイノリティなのだと定義しても大きな間違いにはならないでしょう。 また善良なマジョリティにとってマイノリティは時に同情や憐憫を伴った好奇心の対象になります。そこにつけ込んだマスコミが描くマイノリティ像は、視聴者がどこかで得た断片的な知識から作り上げたイメージに合致するような情報を抜き取り誇張して見せることが多く、視聴者の期待≠裏切るようなマイノリティの多様性を明らかにすることはまれです。 自分がよく知らないものに対してじっと目を凝らし耳をそばだて、そこで得た情報を客観的に判断するのは意外と難しいものです。多くは、旅行に行ってたまたま出合った人やその日の天気によって「あそこはとんでもない所だ」とか「〇〇人は信用できない」などと裁断するように、断片的な情報をもとに「アノ人たちはソウイウ人たちだ」と決めつけ、ステレオタイプの枠に閉じ込めてしまいがちです。 そして善良なマジョリティによって作られたマイノリティの枠組からはみだした更なるマイノリティは、カテゴライズされたマイノリティの枠からもはじき出され一層の無視や敵視にさらされかねないのです。 悲しいことにそれはマイノリティとしてくくられた枠の中でも同様で、マイノリティの中での無視や敵視が入れ子細工のように構成されていることは珍しくありません。マスコミが華々しく取り上げるマイノリティの陰に隠れて、見過ごされ無視され続けるマイノリティの悲痛な声を聞き取ることの難しさの一例が「性同一性障害性転換の朝(あした)」の次の一節からも窺い知れます。
11 女子校の中の性的マイノリティ 学校の中にも様々なマイノリティが存在しています。それは不登校や摂食障害といった比較的多くの人に認知されている存在≠烽れば、同性愛やGIDのようにいまなお誤解や偏見にさらされている存在もあります。 教師の中にもいまだに「同性への恋愛感情は思春期特有の一時的なもの」で「そうでなければ性倒錯や精神病の一種なので治してやらなければならない」と思い込んでいる人がいます。 こうした教育的な配慮≠ェ差別や偏見を再生産する行為だと言う事に気付くにはそれ相応の研修が必要なのですが、セクシュアルマイノリティの児童生徒に対する対応や指導を研修課題にしている学校の取り組みを聞くことは余りありません。 それゆえ、自分の受け持ちのクラスに同性愛の生徒がいることに思い及ばず、同性愛者に対する生理的嫌悪感をあらわにした差別的な発言を平気でしている教師も後をたたないのです。 TBSの人気長寿番組「3年B組金八先生」の第6シリーズでは、GIDでFTMTSの少女≠ェ一つの軸となって物語が展開していきました。学校におけるセクシュアルマイノリティの存在やその苦しみが正面から取り上げられたと言うのは画期的な出来事ですが、同時に「性同一性障害とはアアイウモノだ」という刷り込みを多くの視聴者にしているのも事実です。 「男のように自分をオレやボクと称し、スカートを嫌って胸にはさらしを巻いて暮らしている」という行動様式はFTMTSの多くの人に見られる特徴なのかもしれません。 しかし、中にはあえて「女子校」に進学してミニスカートやルーズソックスをはいているFTMTSもいるのです。人間が普通に持つ個性や多様性をマイノリティであろうとちゃんと持っているということ、そうした多様性に気付くことは当事者でも難しいことのようです。 以前、ある研究会の席でGID当事者の方に「私は女子校の教員ですが、FTMの子どもたちに対して女子校が果たせる役割にはどのようなことがありますか?また、配慮すべきことがあればどんなことでしょう」と質問したことがあります。 それに対して頂いた答えは「FTMの子で女子校に行きたがる子の話は聞いたことがないし、行きたがる子はいないのではないでしょうか。」というものでした。 しかし、先に紹介した「立ちションできたら乾杯」には次のような記述があります。
また八岩まどか氏による「「心の性」で生きる Trans Sexual」には「静香が女子校に入った理由」という一人のFTMのレポートがあり、その冒頭は次の通りです。
こうした手記の断片は、また新たな偏見を生むかもしれません。そうした誤解や偏見と差別の連鎖を断ち切ることこそが、教育本来の目的の一つのはずです。 性別再指定(性転換)手術を、あたかも癖毛を直すストレートパーマや美容整形、あるいは入れ墨などと同列に扱うことはGIDへの無知・無理解を示すものにほかなりません。 しかしもう一歩踏み込んで、この世の誰もが誰にも侵されることのない権利として性的自己決定権(セクシュアル・ライツ)を持っていることに気付くならば、医療行為として確立している性別再指定手術は言うに及ばず、学校で取り締まるのが当たり前になっている茶髪やピアスも、その人がもっともその人らしくいきる手立てとして誰からもとやかく言われる筋合いのものではないという確信に行き当たります。 (参照:人権救済制度の在り方について (答申)) 学校が本気になってセクシュアル・マイノリティに対する対応をとろうとしないのは、性が一種のタブーであるということ以上に、マイノリティの人権を守ることが今行われている生活指導≠大きく揺さぶりかねないことを、多くの教師が無意識に感じ取っているからなのかもしれません。 あらゆるマイノリティの問題はすべての生徒の問題と接点を持っているのだと自覚することが、学校教育の質の向上をもたらします。 (参照:人権教育及び人権啓発の推進に関する法律) 共学校化が進む時代の流れ中で女子(男子)校はその社会的な存在意義を問われている今だからこそ、一方の性だけを集めて教育しているという特異性≠再確認し、その影にある様々な性的課題に積極的に取り組む事に意味があるといえるでしょう。 12 立ちあがり始めた神と座ったままの仏 「この世の誰もが人として同等の尊厳を持った存在であり、なおかつその存在の仕方は多様性に満ちている」こんな単純なことが通用しない。人権や思いやりが標語のように掲げられた街角や学校で、無知と偏見に基づく差別がまかり通り、自らがその主体であることに気付こうとしない。 そうした人間界、社会や世間に絶望しかけた時に神や仏にすがりたくなった経験を持つ人も多いでしょう。ところが、病人や障害者、飢えや戦乱に苦しむ人に対して救いの手を差し伸べてきた教会や寺院が、同性愛者をはじめとするセクシュアル・マイノリティに対して時に攻撃の先鋒となった歴史や現実があります。 (ProjectG/聖書の中のヤギさんの中のレビ記 18:1-3 6-10 22-23 いとうべき性関係やレビ記 20;10、13、15-16 死刑に関する規定もご覧下さい。) しかし、セクシュアル・マイノリティが積極的に神との接点を求め、苦しむ仲間の救済の道を探ろうとしている事に対し、理解を示す動きがあることも事実です。 善良で信心深い人々がGID当事者に投げ掛ける「親からもらった体なんだから傷つけるなんて申し訳ない」「神様が下さった性を勝手に変えようとするなんて罰当たりだ」と言う言葉ほど当事者自身を深く傷つけているものはないかもしれません。 「多様な「性」がわかる本 性同一性障害・ゲイ・レズビアン」の第X章「多様な性を理解するための基礎講座」で、虎井まさ衛さんがわざわざ「身体を人工的に改造して性を変えるなどということは、親にも申し訳ないし、神様を冒涜しているように思えるのですが?」という問いを設けました。 そしてその答えの最後を「たとえ手術で外側を変えたとしても。GIDであったからこそ得た幸福と使命を正しく認識して、一生懸命、感謝をもって生きる限り、特に何の問題もないのに不平不満を口にしつつ一生を終える人々よりも、神様を冒涜していることになるとは、私はどうしても思えないのです」と締めくくっています。 その言葉の重みを受けとめるだけの器を育てることこそが人間教育=宗教教育の課題だと言えないでしょうか。 上村一夫が描いた売春婦サチコが商売≠していた「新宿二丁目」は売春防止法が施行により赤線地帯≠ェ消滅して半世紀がたつ今、性的マイノリティのメッカのような土地になっています。しかし社会的かつ性的強者の地位を保ってきた男は、今も女に対して一方的に清純さや貞淑を、あるいは欲情を掻き立てる淫らさをもとめ、なおかつそこに抱かれて癒しと安息を得ようとします。 新約聖書「ルカによる福音書7 罪深い女を赦す」でイエスは売春婦のマグダラのマリアの罪を赦され、イエスが十字架にかけられて処刑された後も一人墓の前に留まり、その「復活」を目撃した証人となります。 罪の少ないものより多くの罪を持つものの愛は大きく、多く愛したものは赦されると語って彼女の罪を赦したイエスが説く「罪あるものこそ深く愛さねばならない」という教えを、私たちは容易に受けとめることができません。 セクシュアル・マイノリティには何の罪≠烽りません。それを蔑むものの中に本当の罪があるのです。サチコは世の中の偏見や蔑視に耐えながら、男の欲望に応えて孤独な男たちを慰め続け、煩悩うずまく世俗の底ですっくと立って立ち小便をしたのです。そんなサチコを堕落した淫らで汚れた女としてしか見ることのできない目であれば、きっと性的マイノリティも奇妙で気味の悪い存在にしか見えないでしょう。 性≠ェ極めて人間的な課題であり、それとまともに向き合うことがすべての個人の尊厳を守っていく運動の起点となることを心にとめるとともに、神や仏がセクシュアルマイノリティを見捨てぬことを願いつつ、このシリーズを終ります。 |
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