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考えるヒントのお蔵  性と文化の棚  第4番
立ち小便とジェンダー 1
エログロ硬派少年誌≠ゥらみえるもの
上村一夫(かみむらかずお)は武蔵野美術大学デザイン科を卒業後、「同棲時代」を初めとする作品群で1970年代の若者の風俗に大きな影響を与えましたが、下咽頭癌を患い1986年1月11日、45歳で亡くなりました。

私の記憶が正しければ、その代表作「サチコの幸(『漫画アクション』1976年連載開始)に、主人公サチコ(新宿二丁目の売春婦)が友人の女性と二人で雪の上に並んで立ち小便をし、おしっこで文字を書くという場面がありました。

そのカットを見た時抱いた「女性が立ち小便して字が書けるのか?」という素朴な疑問と、立ち小便をするサチコの妙な明るさというか解放感というか、一種の生命感のようなものの正体は何なのか、それが30年近くずっと頭の隅に引っ掛っていました。

今回の『上村一夫の世界展(川崎市市民ミュージアム2002年10月29日から2003年1月26日)の開催を期に、女性の立小便について考察してみようと思います。ひょっとすると、性と排泄という二つの下ネタの重なり≠ゥらジェンダーとセクシュアリティを考える新たなヒントが見つかるかもしれません。
(参照:川崎市市民ミュージアム学芸員細萱敦氏の「上村一夫作品の流れを追う」)

まずその手掛かりとして、女性と小便(排泄物)との関わりが漫画や劇画の中でどう描かれてきたのかを簡単に振り返ってみましょう。



1 エログロ硬派少年誌≠フ登場

2002年11月、『週刊少年ジャンプ』の米国版「SHONEN JUMP」が日系企業ビズ・コミュニケーションズから1冊$5(約600円)で創刊され、全米で予想を上回る勢いで売れているそうです。米国での日本のテレビアニメと原作の漫画に対する根強い人気が背景にあり、「ドラゴンボール」など、これまで週刊少年ジャンプで連載したか、または連載中の漫画が掲載されていくとの事です。

1968年8月に集英社から創刊された週刊『少年ジャンプ』は、子供の目から見てもそれまであった『少年キング』『少年サンデー』『少年マガジン』とは違う新しい編集方針が見て取れました。その初期の特徴を一言で言うならばエログロ硬派路線≠ナす。
(参照:永井豪の世界 集英社 少年ジャンプhttp://www.mazingerz.com/magazine/jump.html

その象徴が1968年第11号から連載開始した永井豪の「ハレンチ学園」と本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」です。当時の少年たちの誰もが、この二つの漫画に何がしかの影響を受けて思春期を通過したと言っても過言ではないでしょう。ハレンチ学園で先生たちにつかまって裸で磔にされたグラマー美少女柳生十兵衛を、これまた裸の少年山岸君が救い出す場面は今でも鮮明に思い起こすことができます。
(参照:Sum up 豪 mania ハレンチ学園 http://www.pureweb.jp/~gomania/data/harenchi.html)

「あばしり一家」(『週刊少年チャンピオン」』1969〜73年連載)は「ハレンチ学園」の発展作品とも言える作品で、「ハレンチ学園」でも描かなかったSMやスカトロジーの要素がふんだんに盛り込まれています。それはその後汚物フェチギャグ漫画≠ニもいえる「オモライくん」(『少年マガジン』1972年)や、少年誌と思えぬほどに縦横無尽に倒錯した性を描いた「イヤハヤ南友」(『週刊少年マガジン』1974〜76年 )へ発展していきます。

ただ、「オモライくん」に登場する垢まみれの「おこもちゃん」は文字通り汚れ切った姿をしていますが、清純で慈愛に満ちた存在として描かれています。おこもちゃんの姿に聖母、あるいはマグダラのマリアの姿を見た人がいても不思議ではありません。
(参照:Sum up 豪 mania あばしり一家   http://www.pureweb.jp/~gomania/data/abashiri.html)
(参照:Sum up 豪 mania オモライくん   http://www.pureweb.jp/~gomania/data/syukan/omorai.html
(参照:永井豪の部屋 イヤハヤ南友  http://www.asahi-net.or.jp/~WX5H-KTB/gofo/nantomo.html



こうした週刊少年漫画誌上における汚物趣味=スカトロジー(排泄崇拝)最大ヒット作品が、とりいかずよし作「トイレット博士」(『少年ジャンプ』1970年から7年間連載)であることに異存を唱える人はいないでしょう。

個人的には絵のタッチやギャグの幼稚さが不快でしたが、幼児や子供の誰もが心惹かれる<Eンコに徹底してこだわったところは今思い返しても凄いと言わざるを得ません。SF「ミクロの決死隊」よろしく縮小されて美少女の体内に入った少年たちが彼女の肛門目指して突き進む単行本第1巻「黄色い天使の巻 第1話 体内探検の巻でケツかる!!」のストーリーは、少年誌におけるスカトロジー漫画の金字塔と言えます。
(参照:G-ZONE トイレット博士 http://g-zone.come-up.to/J/f_library/f_manga04/ToiletHakase.html

また男性器を中心に据えたお下劣下ネタギャグ漫画≠フ最高峰といえるのが、山上たつひこの「がきデカ(『少年チャンピオン』1974 〜80年連載)です。少年警察官「こまわりくん」が繰り広げる「八丈島のきょん」「アフリカゾウが好き」「死刑!!」といったナンセンスギャグは、エログロの本質ともいえる既成の価値観や常識への攻撃性に満ちた作品となっています。
(「八丈島のきょん」については八丈島のくさや屋さんさんのサイト、あるいは動物図鑑 きょんhttp://www.crt.or.jp/public/user/~kuwa/kyon.htmさんをご覧ください。)

少年の泌尿器と外性器は同一の器官であるため、排尿=立小便と性的な解放感とがよりストレートに結び付けられやすい傾向にあります。その一方で少女の泌尿器も外性器も構造的に目に触れにくく、また排泄は常に閉ざされた空間で営まれており、その神秘性が少年の異性に対する好奇心を刺激していきます。

ここで紹介された少年漫画が登場する1960年代後半から70年代初めには、まだ学校に汲み取り式の木造外便所が残っていました。見てはいけないからこそ見てみたい世界がそこにある。木製のドアや仕切り壁の節穴は、少年達を禁断の世界へといざなう通路でした。

こうした時代的な背景を持つエロ・グロ(スカトロジー)・ナンセンスは、少年たちの密やかな性的好奇心の充足と小うるさい大人の常識への反抗心を充足させてくれる格好の素材であったといえるでしょう。そしてそれはタイル張りの水洗トイレになった現代も形を変えて存在しているはずです。


2 オシッコと性のファンタジー

ジークムント・フロイト(1856-1939)流の精神分析では、誕生から離乳までの「口唇期」、トイレのしつけを通してセルフ・コントロールの訓練をする「肛門期」、幼稚園のころの「男根期」、小学校時代の「潜在期」、青年のころの「性器期」というように、性のエネルギーを基準にして性格形成の段階を分類しています。

ただ、そんな小難しいことを持ち出さなくとも、多くの人は性的な成熟の過程に排泄の快感があることを体験的に知っています。そして倒錯した性の世界の中でも排泄行為が重要なポジションを占めていることは、コンビニの書架にもあふれているコミックやスポーツ新聞からも十分にうかがい知れます。

少年から青年へと心身ともに成長していく思春期に激しく渦巻く妖しい性のファンタジーは、感情と肉体を供えたパートナーとの固有の関係を通して一体感や安心感を伴った相互的な性的充足感へと移行していきます。

しかし性的な関係を結ぶ相手を、固有の感覚や感情や肉体を持った存在として意識できず、自分と対等な人格を持った人間として付き合うことができない場合、その性行動は一方的な性的満足、ファンタジーへの埋没に向かいます。

相手に自分のファンタジーを投影して快楽を得るのは相手にマスターベーションを手伝ってもらっているにすぎません。しかも、そのファンタジーは巷にあふれる性情報をつぎはぎしたステレオタイプで、手作りのぬくもりや独創性を求めることすらないチープなファンタジーだといったら言いすぎでしょうか。

成人向け≠フ雑誌やビデオで定番のようになっている女性の放尿シーンは、自分だけが女性の痴態=秘められた世界を覗き見ることができる特権的存在である事を確認し、女性の体や顔面への精液発射=排泄シーンは、女性を隷属し私物化していることを確認する儀式的行為であるともいえます。これはオス犬が自分の縄張りを示すために足を上げて電柱に立ち小便≠キるマーキング行動と類似しているといえるでしょう。

こうした性行動は「男性特有の本能であり男性的なセクシュアリティの発現である」かのように語られ、その裏返しとして「見られ吐き出される事に悦びを感じるのが女性のセクシュアリティである」かのように描かれます。

しかし、その両方ともが男性によって構成された一種のファンタジーであり、そうしたポルノ情報やそれを規範にした性行動がゆがんだジェンダーを再生産しているのです。


3 オシッコとジェンダー

先に『少年ジャンプ』をエログロ硬派路線≠ニ表現しましたが、エログロと対を成すのが硬派(というか右翼チック)漫画です。その旗手と言える本宮ひろ志の作品に「さわやか万太郎」があります。

その連載の初め頃に、万太郎の姉達が家の庭で並んで放尿するシーンが出てきます。女性優位の家で育って恥じらいを持たない下品な姉たち≠フ姿は、日本古来の伝統的な奥ゆかしさ≠発揮して万太郎の父親にトイレの順番を譲る五月ちゃん(万太郎の許婚)の女らしさ≠強調するものとして描かれています。

漫画に限らず多くの文芸作品でも男の立ち小便は男らしさの象徴として肯定的に描かれ、それが出来ない女性は男性に依存し従属する存在として位置付けられ、なおかつ男性のように振舞う女性は否定的に描かれがちです。

青年向け<Rミックで男性性の強さ比べの場面として、思春期の男の子たちのマスターベーションによる精液の飛距離競争(そうした経験がある男性が多数派だとは思いません)が描かれているのは、そのバリエーションともいえるでしょう。

立ち小便は単なる排尿姿勢ではなく、明瞭なジェンダー・パターン(性による表現や好みの差)として人々に意識され、それがジェンダー・ロール(性による固定的な役割)を強固にしていく働きを持っているのです。


売春婦であるサチコの立ち小便≠ェ示す明るさは、体を男に売りつつも自立した人格を持った人間として自分の人生を切りj開いていこうとするサチコの前向きな姿勢から放射されたものなのかもしれません。

日本的ジェンダー≠肯定的に描き続けてきた本宮漫画と、少年漫画に倒錯した性≠フ世界を開きデビルマンやマジンガーZなどの異形の存在≠数々生み出した永井豪。この二人に代表される漫画や劇画をエロだの女性蔑視だのと切って捨てるのではなく、そこから男性のセクシュアリティとジェンダー意識の深層を探ってみるのも面白いのではないでしょうか。

さて、こうした漫画の考察を通して少し見えてきたことがあります。それは男性の立ち小便が性器・性欲と分かちがたく結びついた男らしさの象徴≠ナあるのに対し、女性の立ち小便はジェンダーに対する抵抗と人間性解放の表現≠ナあるということです。

しかし、ここで忘れてならない、というより知っておかなければならないのは排尿体位の歴史的背景、あるいは地理的広がりの中で女性の立ち小便の普遍性です。

次回はそれを再確認することで、立ち小便とジェンダーの関わりを読み解く鍵を探していきましょう。

立ち小便とジェンダー 2
「女性の立ち小便今昔物語」へつづく


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