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しばやま やはち

柴山矢八

しばやま やはち

1849(嘉永2.7.14)〜 1924.1.24(大正13)

明治・大正期の海軍軍人(大将)、男爵

埋葬場所: 10区 1種 13側 37番

 薩摩(鹿児島県)出身。薩摩藩医の柴山良庵、サノ子(共に同墓)の三男。長兄の柴山良助(同墓)は薩摩藩尊王攘夷志士(江戸薩摩藩邸焼討事件)。次兄の柴山愛次郎(同墓)も同じ尊王攘夷志士(伏見寺田屋事件)。東郷平八郎(7-特-1-1)の従弟。
 幼かったため兄のように尊王攘夷志士としての活動や薩英戦争への従軍はしていない。明治政府には開拓使の一員として仕官し、1871(M4)太政官よりアメリカ留学を命ぜられた。1874 帰国して海軍に入り中尉に任官。一年間、武庫司に勤務し水雷製造掛となる。英国人ドーグラス海軍少佐から水雷術を習得し、魚雷・機雷製造現場で研究開発を推進した。
 翌年、江華島事件の交渉に際し、黒田清隆弁理大使に従い朝鮮に渡る。1877 西南戦争に砲兵大隊に属し従軍し、柳原勅使を鹿児島まで護送する大役を果たした。1876 浅間乗組を経て、1879.9.15 初代の水雷練習所長に就任。1883.4.5 水雷局長になり、初期の水雷術発達に貢献し「水雷の父」と賞賛される。1884.2.9 軍事部第三課長 兼 第四課長に着任。1885.6.20 大佐に進級。
 1886.3.22 参謀本部海軍部第二局長に就き、同.7.13 西郷従道(10-1-1-1)海相は清国を仮想敵国として海軍の至急拡張と技術向上をもくろみ、欧米視察旅行を行うにあたり他6名と共に随行。横浜港を出港し、同.7.28 サンフランシスコに到着。当時の在米公使館付武官は齋藤實(7-1-2-16)であり、シカゴから帯同。一行はアメリカのアナポリス兵学校をはじめ、デュポンド火薬製造所、ローチ造船所、ボストン製鉄所など直接軍事に関係する施設を見学。同.9.12 英国に渡り、英国の軍事施設も見学をした。同時に築地から江田島に移転する兵学校と新設する海軍大学校の教師も探した。特に英国海軍とは後に日英同盟に繋がる路線を敷いた。続いてフランスに渡り、海軍に関する軍事・軍政の情況を視察し、他にドイツ、ロシア、イタリアを巡回して、1887.6 帰国。同.10.27 艦政局次長を任ぜられた。
 その後、1889.3.8 海軍省第二局長心得、同.5.16 筑波艦長、1891.2.6 横須賀鎮守府参謀長、同.12.14 海門艦長、1893.4.20 高千穂艦長、同.12.20 第16代 海軍兵学校長を歴任した。
 1894.7.13 日清戦争中に佐世保鎮守府司令長官に海軍史上唯一の大佐にて長官に抜擢されるも、鎮守府長官は少将以上でなければ任命できない顕職であるため、長官心得として就任し、二週間後、同.7.30 少将に昇格し、改めて長官を任ぜられた。
 1897.10.8 中将に累進し、常備艦隊長官に就任。艦隊派の重鎮として海軍軍政の権威で革新派の山本権兵衛と、保守派の柴山は共に海軍内の双璧と称され、「権兵衛が種まきゃ矢八がほじくる」と戯れ歌まで生まれた。
 1899.1.19 第10代 海軍大学校長 兼 技術会議議長に補された。同.9.26 免兼。1900.5.20 呉鎮守府司令長官。'05.2.6 旅順陥落後の日露戦争末期において、旅順口鎮守府を設置にあたり初代長官に抜擢された。この時の仕事は日本軍に沈められたロシア軍艦の引き揚げであった。引き揚げた軍艦を再生し日本海軍に編入した。この功が認められ、同.11.13 海軍大将に昇進。また、1906.4 戦功として功2級金鵄勲章。
 海軍草創期に欧米の海軍新知識を吸収し、海軍発達のために尽力したとともに、裏方の事務処理にも長けており、その地道な功績の積み重ねが評価された。真面目で堅実でスーパーサブ的な人材であり、海軍内では日本海海戦でもし不幸にして東郷長官が討死した場合、代わって誰が連合艦隊を指揮するのかという局面の時は、誰もが柴山矢八に指を屈するだろうといわれていた。結果、出る幕はなく、ついに華々しい武名をあげることはなかった。
 '06.2.2 待命し休職。'07.2.24 予備役、同年.9.21日露戦争の功により男爵の爵位を授爵した。'15.7.13(T4)後備役。'20.7.13 退役後は、海軍と関わりを持たず余生を過ごした。奇しくもアメリカ提督ペリーが江戸湾に再航し、日本人が巨大な黒船に度肝を抜かれた70年前の同月同日に没した。従2位 勲1等 功2級。享年74歳。没後正2位に序せられた。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国海軍提督総覧「大将 柴山矢八 後衛について海軍発達に尽力」今野信雄>
<日本陸海軍のリーダー総覧>
<人事興信録など>


墓所

*墓所には二基建ち、左側が和型「柴山家先祖之墓」、左面が墓誌となっており、「贈従四位 柴山愛次郎 文久二年四月廿三日 於 伏見寺田屋卒。行年二十八」から刻みが始まり、次に「贈正五位 柴山良助 明治元年一月九日卒 為 江戸之藩邸焼撃事件及之 行年三十五」と刻む。次に4才で亡くなった柴山昌世(M16.4.26没:矢八の長男)、父の柴山良庵(M21.8.29没・行年79)、母の柴山サノ子(M30.12.11没:良庵妻東郷氏 行年82)と刻む。なお、サノ子は東郷平八郎(7-特-1-1)の叔母にあたる。裏面も引き続き墓誌となっており、柴山琴子(安政4.3-T10.7.1:矢八妻本田氏・行年65)、琴子は枢密顧問官・男爵の本田親雄の長女。柴山道哉(T11.1.10 早死:矢八の四男)。柴山直矢には海軍大尉 正七位 勲五等と潜水試験中に殉職した旨の簡略歴が刻む(T12没・行年32:矢八の三男)。柴山昌生(M17.8-S27.3.15・行年68:矢八の次男)には海軍少将と刻む。右面には柴山長庵母手塚氏、柴山長庵、柴山長庵室付田氏、柴山長庵女、柴山正一と江戸時代に没した先祖の刻みがある。左側が和型「海軍大将 男爵 柴山矢八 / 室 琴子 之墓」、右面「海軍大将 正二位 勲一等 功二級 男爵 柴山矢八 嘉永二年七月十四日生 於 薩摩鹿児島 大正十三年一月廿四日薨去 行年七十六」と刻む。左面「大正十年七月一日歿 享年六十五」と妻の琴子の没年月日が刻む。墓所右側に墓誌が建ち、「柴山家先祖代々各神霊」とあり、柴山昌生から始まり、昌生の妻の むめ子(M27.4-H1.3.28・行年94:鹿児島出身・実業家の園田實徳6女)、柴山昌道(H17.12.27没・行年90:昌生の長男)、柴山智恵子(H28.8.9没・行年92:昌道の妻)が刻む。

*矢八の長女の初栄は陸軍砲兵大佐の土方久路に嫁ぎ、その息子が彫刻家の土方久功(1900-1977:久功からみて母方の祖父が柴山矢八)。久路の兄は伯爵の土方久元。久元の子は陸軍大尉の久明、久明の子が演出家の土方与志。

※多くの人名事典に掲載されている生没年月日ではなく、墓石に刻まれている生没年月日を優先して記す。


柴山直矢 しばやま なおや
1893(明治26)〜 1923.8.21(大正12)
大正期の海軍軍人(大尉)
 東京出身。父は海軍大将の柴山矢八、3男として生まれる。1915.12.16(T4) 海軍兵学校卒業(43期)し少尉候補生となる。'21.12.1 大尉となり、第70号潜水艦艤装員に着任。'23.8.21(T12) 第70号潜水艦の潜水試験中の沈没事故により殉職。享年31歳。同.10.1 死亡認定。正七位 勲五等。
 直矢は当時、結婚を望んでいた女性がいたが、その女性が外国人であったため結婚を許してもらえなかった。その女性と別れさせられた上、親が決めた妻(愛子)と望まない結婚をすることになった。愛子は死別後に離籍。



第186回 伏見 寺田屋事件 その1 柴山三兄弟 お墓ツアー
薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件 柴山愛次郎 柴山良助 柴山矢八


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