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しばやま りょうすけ

柴山良助

しばやま りょうすけ

1834(天保5)〜 1868(慶應4.1.9)

幕末・維新期の薩摩藩尊王攘夷志士(勤王志士)

埋葬場所: 10区 1種 13側 37番

 薩摩(鹿児島県)出身。薩摩藩医の柴山良庵、サノ子(共に同墓)の長男。名は道懿(どうい)。弟(二男)の柴山愛次郎(同墓)は同じ尊王攘夷派の志士。弟(三男)の柴山矢八(同墓)は海軍大将・男爵。甥(矢八の長男)の柴山昌生(同墓)は海軍少将・男爵。
 薩摩藩士として、ペリー来航以来尊王攘夷運動に従事する。久留米水天宮司の真木和泉の尊王攘夷急進派に弟の愛次郎と加盟し、真木理論である「諸侯の兵をかりて挙兵する」に同調。有馬新七の尊王挙兵論にも後押しされた。1862(文久2)島津久光に従って京都に上るが、寺田屋事件に連座して謹慎を命ぜられた。
 1863 薩英戦争で軍役について活躍したことで寺田屋事件の罪を許された。1865(慶応1) 江戸留守居添役となる。西郷隆盛の命をうけ、幕府とフランスの結託を妨害するため、横浜においてイギリスとの交渉にあたる。
 慶應3年10月14日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は取り消された。しかし、討幕のために江戸薩摩屋敷に狼士隊が集まり、江戸市内擾乱をはかり、その行為は拡大し各地で騒動や事件が起きていた。幕臣たちは続出する騒乱の黒幕は薩摩藩との疑いを強くし、1868.1.19(慶應3.12.25) 幕府の命をうけた庄内藩に加え、上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩が集結し薩摩藩邸を包囲。交渉もまとまらず、砲撃を開始し焼打ちにあう(江戸薩摩藩邸の焼討事件:この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけとなる)。結果、この焼き討ちによる死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64人、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩2人の計11人であった。捕縛された浪士たちは112人におよんだと記録されている。その時、良助は捕えられ、伝馬町の獄につながれた。
 牢内でも大義を説いて屈せず、やがて免れ難きを知ってピストルで自殺した。享年31歳。1916(T5)贈正五位。

<コンサイス日本人名事典>
<幕末維新人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所 しばやま りょうすけ

*墓所には二基建ち、左側が和型「柴山家先祖之墓」、左面が墓誌となっており、「贈従四位 柴山愛次郎 文久二年四月廿三日 於 伏見寺田屋卒。行年二十八」から刻みが始まり、次に「贈正五位 柴山良助 明治元年一月九日卒 為 江戸之藩邸焼撃事件及之 行年三十五」と刻む。次に4才で亡くなった柴山昌世(M16.4.26没:矢八の長男)、父の柴山良庵(M21.8.29没・行年79)、母の柴山サノ子(M30.12.11没:良庵妻東郷氏 行年82)と刻む。なお、サノ子は東郷平八郎(7-特-1-1)の叔母にあたる。裏面も引き続き墓誌となっており、柴山琴子(安政4.3-T10.7.1:矢八妻本田氏・行年65)、琴子は枢密顧問官・男爵の本田親雄の長女。柴山道哉(T11.1.10 早死:矢八の四男)。柴山直矢には海軍大尉 正七位 勲五等と潜水試験中に殉職した旨の簡略歴が刻む(T12没・行年32:矢八の三男)。柴山昌生(M17.8-S27.3.15・行年68:矢八の次男)には海軍少将と刻む。右面には柴山長庵母手塚氏、柴山長庵、柴山長庵室付田氏、柴山長庵女、柴山正一と江戸時代に没した先祖の刻みがある。左側が和型「海軍大将 男爵 柴山矢八 / 室 琴子 之墓」、右面「海軍大将 正二位 勲一等 功二級 男爵 柴山矢八 嘉永二年七月十四日生 於 薩摩鹿児島 大正十三年一月廿四日薨去 行年七十六」と刻む。左面「大正十年七月一日歿 享年六十五」と妻の琴子の没年月日が刻む。墓所右側に墓誌が建ち、「柴山家先祖代々各神霊」とあり、柴山昌生から始まり、昌生の妻の むめ子(M27.4-H1.3.28・行年94:鹿児島出身・実業家の園田實徳6女)、柴山昌道(H17.12.27没・行年90:昌生の長男)、柴山智恵子(H28.8.9没・行年92:昌道の妻)が刻む。

※【寺田屋事件と多磨霊園に眠る連座した人たち】柴山愛次郎のページへ


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