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はしぐち そうすけ

橋口壮介

はしぐち そうすけ

1841(天保12)〜 1862.5.21(文久2.4.23)

幕末期の薩摩藩士、尊攘派の志士

埋葬場所: 22区 1種 5側

 薩摩(鹿児島県)出身。薩摩藩士の橋口彦次・イサ(共に同墓)の長男。名は隷三。弟に寺田屋事件で共にした橋口吉之丞(同墓・名は次郎)。 幼少の時から気骨人に優れ、文武二道を修め、特に大山綱良より薬丸自顕流を学び秀逸で、造士館の教導(藩校造士館訓導)となった。
 有馬新七、奈良原幸五郎(後の喜八郎、繁)らとの交流を深め、平野国臣らの訪問を受け勤王の志を厚くした。 安政以来の幕府の朝廷に対する態度を憤慨し、有志と共にこれが矯正の意見をいだき、尊王挙兵論に意志を固めていった。
 1862.1(文久2)柴山愛次郎(10-1-13-37)と共に江戸詰を命ぜられ、途中九州各地の志士と会合し、島津久光の出府を機として全国の志士を糾合して、東西に兵を挙げることを協議、京都に立寄って田中綏献や清河八郎らと謀議を遂げ、2月に江戸に着任。在藩の有馬新七らは絶えずこれと連絡して機の熟するのを待っていた。 しかし同志が少なく事の成就しがたいのを察し、翌年3月に江戸藩邸を脱して大坂に至り、中之島魚屋太平方に合宿して島津久光の上洛を待った。4月23日有馬新七らと京都伏見の寺田屋に入り挙兵(九条尚忠・酒井忠義襲撃)を計画。島津久光の中止命令を伝えにきた鎮撫使に斬られ闘死〔寺田屋事件〕。享年22歳。贈従四位を授けられる。

<朝日日本歴史人物事典など>


*墓石は和型「橋口家之墓」。右側に墓誌があり、「長男 壮介」の刻みと共に、没年月日が刻む。墓誌には「文久二年四月二十三日」と刻む。「伏見寺田屋」の刻みも見ることができる。 他に父の橋口彦次は墓誌では「橋口兼柱」、壮介と共に寺田屋事件に関与した弟で次男の橋口吉之丞は墓誌には「橋口次郎」の名で刻む。

*橋口壮介、吉之丞(次郎)が没し、橋口彦次(兼柱)以降の男児の家督継承者が途絶えたため、兼綱(同墓)を養嗣子として迎えるも早死。 そこで、彦次の四女テイ(同墓)の夫の兼利(同墓)が婿養子となり橋口家を継承。その子で橋口家を継いだのが、日本で初めて再生ゴムを製造販売した橋口巳二(1881‐1961.12.20 同墓)である。 橋口巳二は1919(T8)亀戸ゴム製造所を設立し、翌年、日本初の再生ゴム製造販売を行う。'32(S7)亀戸ゴム製造所社長、日本護謨協会設立に参画。'50(S25)株式会社 平泉洋行の設立に伴い社長に就任。 日本再生ゴム株式会社取締役社長も歴任。享年80歳。なお、巳二の長男の克巳(同墓)は陸軍中尉、次男の兼貞(同墓)は海軍少佐として共に太平洋戦争で戦死。

名前を「橋口壮助」とするものも散見したが、ここでは墓誌の刻みより「橋口壮介」で統一する。


【寺田屋事件と寺田屋殉難九烈士墓】
 文久2年4月23日に京都伏見の船宿寺田屋で起こった薩摩藩士同士の事変。別称は「寺田屋の変」「寺田屋騒動」。
 夕刻、大坂から淀川を上ってきた四隻の船が伏見蓬莱橋下に着き、有島新七以下20余名の急進派薩摩藩士が上陸、すぐ近くの船宿寺田屋に入った。 やがて、久留米の真木和泉ら他藩の同志十余名も京都から合流。討幕軍事決定の最終具体策を練り、意気大いに上がる。ところが、出陣前の乾杯をしようとした午後十時頃、招かぬ客が訪れてきた。 同じ薩摩藩の使い手の奈良原喜八郎や大山綱良、森岡善助(後の昌純。22-1-37-5)ら9人の鎮撫使である。 これは、鹿児島藩主生父島津久光が兵を率いて上洛するや、在坂の志士は久光を擁して討幕を企てたが、久光の意図が公武合体にあるを知り、独力で関白の九条尚忠、所司代の酒井忠義らを襲撃せんとし、寺田屋に屯集していることを聞きつけ、久光はその暴発を止めるため、鎮撫使を急派して鎮撫させようとした経緯である。
 無血のうちに政治の主体性を確保しようと精兵千人を率いて上京した久光にとって有馬らの激発は許せぬものだった。 その意を受けて奈良原らは説得をするため、寺田屋一階別室にて急進派の有馬新七、橋口壮介、柴山愛次郎、田中謙助の4人を呼びだし決起を思い留まるよう力説した。 しかし、問答は再三繰り返されたが急進派は一向に捗らず激論が続く。「君命に背くのか。背くなら腹を切れ」「宮の御用が済むまで、切れない」「聞けないなら、上意討ちせよと、申しつかっているが、よいか」「仕方ない」「どうして聴けないのか」と道島五郎兵衛が怒鳴ると、田中謙助が「此の期に及んで、何で聴けるか」と怒鳴った瞬間、道島が「上意」と叫び、抜き打ちに田中の眉間めがけて斬りつけ、ここに壮絶な屋内血戦が始まる。 これより先に、関東では安政の大獄の処刑、桜田門外の変、坂下門外の変などがあったが、京都での流血史はこの寺田屋に始まる。
 田中が気絶し倒れると同時に、柴山の背後にいた山口金之進が後ろから右肩口に斬りつけ、返す刀で左肩口を斬りさげ倒した。有馬はこれを見て怒り、大刀を抜いて道島に斬りかかる。 討つ者、討たれる者、共に薩摩藩屈指の剣客、同藩独自の示現流剣法の火花を散らしたが、有馬の刀が中断より折れ、とっさに刀を捨てて道島に組み付き、壁際に押し付けている時に、二階から橋口壮介の弟の橋口吉之丞が下りてきて助勢しようとも狼狽えていた姿を見て、有馬は「橋口、おいごと刺せ」と指示を出し、言われるがままに有馬と道島を刺し抜き二人は絶命。 橋口壮介は一人で必死に闘っていたが、加勢によって肩より乳まで斬り下げられ気息奄々たるものがあった。奈良原も肩に創を負い返り血を浴びて壮介の傍に立つ。 壮介は奈良原に「水を一杯くれ」と言い、奈良原が水を与えると、うまそうに飲んで「俺はもう助からぬ。今より後、天下の事は君達に頼んだ」と言って瞑目したとされる。
 その後も、騒ぎを聞きつけた二階の急進派との激闘が続き、結果、即死は有馬以下急進派8人と、討手側は有馬と共に壮介の弟の橋口吉之丞に突き刺された道島五郎兵衛の1人、重傷は討手側は森岡善助と山口金之進ら3人。残る急進派は薩摩へ護送され、暴発計画は強引に圧殺された。
 急進派の死者8人と、後日、京都で自決した田中謙助の1人を合わせた9人の志士は京都伏見の大黒寺に葬られ、「寺田屋殉難九烈士墓」が建つ。9名は下記である。

有馬新七(正義)法名:養法院観阿有信居士享年28
柴山愛次郎(道隆)法名:悲田院堪然芳愛居士享年27
田中謙助(盛明)法名:忍辱院寂居謙了居士享年35
弟子丸竜助(方行)法名:精進院善覚就孝居士享年25
西田直五郎(正基)法名:常明院西山智雲居士享年25
橋口壮介(隷三)法名:真実院双照玄荘居士享年22
橋口伝蔵(兼備)法名:法伝院賢徳泰巌居士享年22
森山新五左衛門(永治)法名:不断院夏山良勇居士享年20
山本四郎(義徳)法名:緑樹軒智日玄居士享年24

 なお、寺田屋は、この四年後の慶応2年1月、土佐の坂本龍馬が幕吏の襲撃を受けたところでもあり、女将お登勢の侠気、その養女お龍と坂本のロマンスでも知られる場所である。

<日本史小辞典>
<歴史読本 幕末維新人物総覧>


*一説には、橋口壮介は寺田屋事件で鎮撫使に斬られ負傷し、翌日藩邸で自刃を命ぜられ切腹したという人名事典の記もあったが、ここでは墓誌の没年月日より闘死した説を優先する。


【橋口壮介の『鉄扇』が発見】
 2007.5.27(H19)幕末の京都で起きた寺田屋事件で命を落とした薩摩九烈士の一人の橋口壮介(記事では壮助)の鉄扇が見つかり、九烈士が眠る京都市伏見区の大黒寺で開かれた追慕会で披露された。というニュースが各新聞等で掲載された。
 鉄扇は刀から身を守るため武士が腰に差して携帯した防身具であり、手の力を鍛えるトレーニング道具も兼ね、武士が用いた物である。 見つかった鉄扇は玉鋼製で長さ37センチ、重さ700グラム。表に「天見真」「皇國臣 橋口壮助」、裏には「行秀造」と彫られている。 鉄扇を収める箱には、1915(T4)の所有者による添え書きがあり、橋口壮助の略伝が入っており、鹿児島の藩士だったことや、寺田屋騒動で殺された事、伏見の骨董店で持ち主の甥が手に入れた事などが記されている。
 堺鉄砲研究会の澤田平さんが、高知県の古美術商から鑑定して欲しいと鉄扇を4年前に譲り受け、府教委に鉄扇の鑑定を依頼。刀工は薩摩の一派「波平(なみのひら)」の系統で、幕末の「行秀」で間違いないとわかった。 行秀の姓も「橋口」で、壮助と親類関係にあるのではないかと推測。名が刻まれ、鍛工は薩摩波平一門の橋口行秀と分かったことなどから、橋口壮介の鉄扇と断定した。 澤田さんは「鉄扇は多く出回っているが所有者を特定できるのは珍しい。薩摩九烈士の遺物もほとんど残っておらず、面白い発見だと思う」と話している。

<新聞各紙の記事を編集>


 


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