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しばやま あいじろう

柴山愛次郎

しばやま あいじろう

1836(天保7)〜 1862.5.21(文久2.4.23)

幕末・維新期の薩摩藩尊王攘夷志士(勤王志士)

埋葬場所: 10区 1種 13側 37番

 薩摩(鹿児島県)出身。薩摩藩医の柴山良庵、サノ子(共に同墓)の次男。名は道隆。兄の柴山良助(同墓)は薩摩藩尊王攘夷志士。弟で三男の柴山矢八(同墓)は海軍大将・男爵。甥(矢八の長男)の柴山昌生(同墓)は海軍少将・男爵。
 若くして藩校造士館の訓導に任命された秀才。久留米水天宮司の真木和泉の尊王攘夷急進派に兄の良助と加盟し、真木理論である「諸侯の兵をかりて挙兵する」に同調。有馬新七の尊王挙兵論にも後押しされた。
 1862(文久2.1)常に同じ志を持つ橋口壮介(22-1-5)と行動を共にしており、共に在江戸藩士の教育機関ともいうべき糾合方へ転勤(江戸詰任命)。旅程の途次、各地の志士との交流を広げつつ、平野国臣との会見、江戸に着任。
 翌年3月、島津久光の率兵上洛に応じ、江戸で義挙計画の仕上げを行って大坂に乗り込み、九州から同志の到着を待って、伏見の寺田屋に集まる。この一連の行動すべて橋口と一緒であった。
 有馬新七らと伏見寺田屋で挙兵を計画。島津久光の中止命令を伝えに来た鎮撫使と闘争。寺田屋にて鎮撫使の山口鉄之助に斬殺された(寺田屋事件)。享年27歳。贈従4位を授けられる。鎮撫使には森岡善助(後の昌純。22-1-37-5)、同志の急進派には橋口壮介の弟の橋口吉之丞(22-1-5)や兄の柴山良助、西郷信吾(従道)らも居合わせていた。

<幕末維新人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>
<日本史小辞典など>


【寺田屋事件と多磨霊園に眠る連座した人たち】
 幕末に起きた「寺田屋事件」。多くの人がイメージするのは坂本龍馬が暗殺された寺田屋事件と思われるが、同じ場所で4年前の1862(文久2)薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件も起きており、そちらが先に起こった「寺田屋事件」(薩摩藩尊皇派志士の鎮撫事件)である。
 幕末は天皇政権を認めつつも政治は徳川幕府が継続して行おうとする派(公武合体)と、倒幕して天皇政権として新しい新政府をつくろうとする尊王派が対立していた。薩摩藩の事実上のトップであった島津久光は倒幕までは考えておらず、久光が入京した際に、幕府朝廷より過激派の志士始末を授かる。このことを知った志士たちは憂国の念から憤慨し、諸藩の尊王派志士らと共謀して、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃し、その首を持って久光に奉じることで、無理矢理にでも蜂起を促すということを決する。この襲撃前に伏見の船宿の寺田屋に集結した。
 志士暴発の噂を聞いた久光は、決起を止める工作を打つが、抑えることができず、従わない場合には上意討ちもあると剣術に優れた藩士8名を選出して派遣した。その中に森岡善助(後の森岡昌純)がいた。
 文久2年4月23日夜、当時の寺田屋は薩摩藩の定宿であり、すぐに尊王派志士の居場所を突き止められ、派遣された剣豪たちは、まず話し合いをするために面会を申し出た。面会を拒絶されると、森岡らが力づくで志士たちがいる2階に上がろうとし押し問答になったため、柴山愛次郎が対応するため1階で面談することになり、橋口壮介らも議論に加わった。
 志士たちへの説得を続けるも平行線で、「君命に従わぬなら」と派遣された剣豪の道島五郎兵衛が田中謙助を「上意」と叫び抜打ちしたため、同志討ちの激しい斬り合いが始まった。山口金之進も抜刀し話し合いの先頭に立っていた柴山はその場で斬られた。これを見た橋口壮介は奈良原喜八郎、有馬新七は田中を斬った道島に斬りかかる。有馬の刃が折れたため道島に掴みかかり、近くにいた橋口吉之丞(橋口次郎)に「我がごと刺せ」と命じ、その言葉通り有馬と道島の両名を絶命させた。橋口は奮戦していたが、奈良原に肩から胸まで斬られ倒れ、最期に水を所望して飲んだ後に息絶えた。橋口と奈良原は若き日に共に剣術の鍛錬をしていた友人であった。派遣された剣豪の森岡は西田直五郎と相打ちとなり、西田は絶命し、森岡は重傷を負った。森岡は帰藩後、尊王志士を倒したことで名を馳せた。
 なお、尊王派の薩摩藩士の大半はすぐに投降し、橋口吉之丞、柴山良助、西郷信吾(従道)らは帰藩謹慎を命ぜられた。 結果、この事件によって幕府朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かうことになる。愛次郎が亡くなった報を聞いた西郷隆盛は声を放って悲しんだという。

 薩摩藩士同志討ちで命を落とした尊王派志士8名と後日京都で自決した同志1人を合わせた9人の志士は京都伏見の大黒寺に葬られ、「寺田屋殉難九烈士墓」が建つ。9名は下記である。柴山愛次郎と橋口壮介は多磨霊園にも眠る。

有馬新七(正義) 法名:養法院観阿有信居士 享年28
柴山愛次郎(道隆)法名:悲田院堪然芳愛居士 享年27
田中謙助(盛明) 法名:忍辱院寂居謙了居士 享年35
弟子丸竜助(方行)法名:精進院善覚就孝居士 享年25
西田直五郎(正基)法名:常明院西山智雲居士 享年25
橋口壮介(隷三) 法名:真実院双照玄荘居士 享年22
橋口伝蔵(兼備) 法名:法伝院賢徳泰巌居士 享年22
森山新五左衛門(永治)法名:不断院夏山良勇居士 享年20
山本四郎(義徳) 法名:緑樹軒智日玄居士  享年24

 また事件に連座し謹慎を命じられた多磨霊園に眠る人物は橋口吉之丞(次郎)、柴山良助、西郷信吾(従道)がおり、また討ち取るために派遣された森岡善助(昌純)と敵味方が多磨霊園に眠る。


墓所 しばやま あいじろう

*墓所には二基建ち、左側が和型「柴山家先祖之墓」、左面が墓誌となっており、「贈従四位 柴山愛次郎 文久二年四月廿三日 於 伏見寺田屋卒。行年二十八」から刻みが始まり、次に「贈正五位 柴山良助 明治元年一月九日卒 為 江戸之藩邸焼撃事件及之 行年三十五」と刻む。次に4才で亡くなった柴山昌世(M16.4.26没:矢八の長男)、父の柴山良庵(M21.8.29没・行年79)、母の柴山サノ子(M30.12.11没:良庵妻東郷氏 行年82)と刻む。なお、サノ子は東郷平八郎(7-特-1-1)の叔母にあたる。裏面も引き続き墓誌となっており、柴山琴子(安政4.3-T10.7.1:矢八妻本田氏・行年65)、琴子は枢密顧問官・男爵の本田親雄の長女。柴山道哉(T11.1.10 早死:矢八の四男)。柴山直矢には海軍大尉 正七位 勲五等と潜水試験中に殉職した旨の簡略歴が刻む(T12没・行年32:矢八の三男)。柴山昌生(M17.8-S27.3.15・行年68:矢八の次男)には海軍少将と刻む。右面には柴山長庵母手塚氏、柴山長庵、柴山長庵室付田氏、柴山長庵女、柴山正一と江戸時代に没した先祖の刻みがある。左側が和型「海軍大将 男爵 柴山矢八 / 室 琴子 之墓」、右面「海軍大将 正二位 勲一等 功二級 男爵 柴山矢八 嘉永二年七月十四日生 於 薩摩鹿児島 大正十三年一月廿四日薨去 行年七十六」と刻む。左面「大正十年七月一日歿 享年六十五」と妻の琴子の没年月日が刻む。墓所右側に墓誌が建ち、「柴山家先祖代々各神霊」とあり、柴山昌生から始まり、昌生の妻の むめ子(M27.4-H1.3.28・行年94:鹿児島出身・実業家の園田實徳6女)、柴山昌道(H17.12.27没・行年90:昌生の長男)、柴山智恵子(H28.8.9没・行年92:昌道の妻)が刻む。



第186回 伏見 寺田屋事件 その1 柴山三兄弟 お墓ツアー
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