メイン » » » 柴山昌生
しばやま まさき

柴山昌生

しばやま まさき

1884.8.13(明治17)〜 1952.3.15(昭和27)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(少将)、男爵

埋葬場所: 10区 1種 13側 37番

 東京出身。父方祖父は薩摩藩医の柴山良庵(同墓)。母方祖父は枢密顧問官・男爵の本田親雄。父は海軍大将・男爵の柴山矢八、琴子(共に同墓)の次男。伯父に柴山良助(同墓)は薩摩藩尊王攘夷志士(江戸薩摩藩邸焼討事件)、柴山愛次郎(同墓)も同じ尊王攘夷志士(伏見寺田屋事件)。東郷平八郎(7-特-1-1)は親戚。弟に潜水艦事故で殉死した海軍大尉の柴山直矢(同墓)。甥に彫刻家の土方久功。
 1907.11.20(M40)海軍兵学校卒業(35期)。同期に海軍大将となった近藤信竹、高須四郎、野村直邦らの他、町田進一郎(後に少将:2-1-2)らがいる。
 海軍少尉候補生として橋立乗組。翌年、常磐乗組。少尉となり、'09壱岐乗組 、次いで阿蘇乗組。'10砲術校普通科学生、中尉となり、水雷校普通科学生を経て、'11村雨乗組、翌年、鹿島乗組。'12(T1)砲術校特修科学生となって、翌年、河内乗組。 '13大尉となり海大乙種学生となる。'14砲術校高等科学生、艦本艤装員、榛名分隊長。'15杉乗組、'16敷島分隊長、'17秋津洲砲術長、'18鹿島分隊長'19鹿島副砲長を歴任した。同年少佐となり、砲術校教官。'22霧島砲術長、'23陸奥砲術長を務める。
 '24.2.20(T13)父の矢八が没したため、男爵を襲爵。同年中佐となり、砲術校教官 となった。'27(S2)山城副長、'28神威特務艦長、大佐となり、'29第一遣外艦隊附兼上海特陸隊指揮官、'30舞要参謀長、'31赤城艦長となった。'32横鎮附、'33横須賀海兵団長、'34日進艦長、少将に昇進し、横須賀人事部長兼横鎮人事長となった。'36軍令部出仕、待命、予備役。'40航本部外航空指導事務嘱託となり、'41.6.19解嘱託。'42内閣委員となり興亜院に勤務した。同年大東亜省委員、'43厚生省委員として、戦時下の省庁をサポートした。享年67歳。


墓所 しばやま まさき

*墓所には二基建ち、左側が和型「柴山家先祖之墓」、左面が墓誌となっており、「贈従四位 柴山愛次郎 文久二年四月廿三日 於 伏見寺田屋卒。行年二十八」から刻みが始まり、次に「贈正五位 柴山良助 明治元年一月九日卒 為 江戸之藩邸焼撃事件及之 行年三十五」と刻む。次に4才で亡くなった柴山昌世(M16.4.26没:矢八の長男)、祖父の柴山良庵(M21.8.29没・行年79)、祖母の柴山サノ子(M30.12.11没:良庵妻東郷氏 行年82)と刻む。なお、サノ子は東郷平八郎(7-特-1-1)の叔母にあたる。裏面も引き続き墓誌となっており、母の柴山琴子(安政4.3-T10.7.1:矢八妻本田氏・行年65)、琴子は枢密顧問官・男爵の本田親雄の長女。柴山道哉(T11.1.10 早死:矢八の四男)。柴山直矢には海軍大尉 正七位 勲五等と潜水試験中に殉職した旨の簡略歴が刻む(T12没・行年32:矢八の三男)。柴山昌生(M17.8-S27.3.15・行年68:矢八の次男)には海軍少将と刻む。右面には柴山長庵母手塚氏、柴山長庵、柴山長庵室付田氏、柴山長庵女、柴山正一と江戸時代に没した先祖の刻みがある。左側が和型「海軍大将 男爵 柴山矢八 / 室 琴子 之墓」、右面「海軍大将 正二位 勲一等 功二級 男爵 柴山矢八 嘉永二年七月十四日生 於 薩摩鹿児島 大正十三年一月廿四日薨去 行年七十六」と刻む。左面「大正十年七月一日歿 享年六十五」と妻の琴子の没年月日が刻む。墓所右側に墓誌が建ち、「柴山家先祖代々各神霊」とあり、柴山昌生から始まり、昌生の妻の むめ子(M27.4-H1.3.28・行年94:鹿児島出身・実業家の園田實徳6女)、柴山昌道(H17.12.27没・行年90:昌生の長男)、柴山智恵子(H28.8.9没・行年92:昌道の妻)が刻む。

*矢八の長女の初栄は陸軍砲兵大佐の土方久路に嫁ぎ、その息子が彫刻家の土方久功(1900-1977:久功からみて母方の祖父が柴山矢八)。久路の兄は伯爵の土方久元。久元の子は陸軍大尉の久明、久明の子が演出家の土方与志。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。