薩摩国鹿児島郡鹿児島城下樋ノ口通(鹿児島県鹿児島市樋之口町)出身。幼名は清左衛門。前名は森岡善助。
1862(文久2.4.23)京都の伏見寺田屋で薩摩藩尊皇派の柴山愛次郎(10-1-13-37)、橋口壮介(22-1-5)、橋口吉之丞(22-1-5)、柴山良助(10-1-13-37)、西郷信吾(従道:10-1-1-1)らが倒幕して天皇政権として新しい新政府をつくることを目指し、薩摩藩のトップであった島津久光を無理矢理にでも蜂起を促すために関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃してその首を持って久光に奉じようと決起集会を行っていた。久光は倒幕までは考えておらず、天皇政権を認めつつも政治は徳川幕府が継続して行おうとする公武合体派であった。志士暴発の噂を聞いた久光は、決起を止める工作を打つが抑えることができず、従わない場合には上意討ちもあると剣術に優れた藩士8名を選出して派遣した。その中に森岡も抜擢された。
尊王派志士の居場所を突き止め、まず話し合いをするため面会を申し出たが拒絶されたため、森岡が力づくで志士たちがいる二階に上がろうとし押し問答になる。そのため柴山愛次郎と橋口壮介らが話し合いを行うため出てきた。志士たちを説得したが平行線が続いていた時、「君命に従わぬなら」と一緒に帯同していた道島五郎兵衛が田中謙助を「上意」と叫び抜打ちしたため、同志討ちの激しい斬り合いが始まる。森岡は西田直五郎と相打ちとなり、西田は絶命し、森岡は重傷を負った。柴山愛次郎と橋口壮介は絶命。尊王派の薩摩藩士の大半はすぐに投降し帰藩謹慎を命ぜられた。森岡は重傷を負ったが、尊王志士を倒したことで名を馳せた。
維新後、明治政府に出仕し、1871(M4.8.27)長崎県権大参事に就任。1872 飾磨県参事、1874 飾磨権令、五等判事を兼務。1876.8.21 飾磨県が廃止され廃官。同.9.9 兵庫県権令(第8代)となり、商業学校を創ることを計画し、翌年神戸商業講習所を設立した。1878.5.29 権令廃止に伴い、兵庫県県令となり、約8年半、兵庫県政に携わった。兵庫県政に着任した直後は、兵庫・飾磨・豊岡・名東(淡路)の四県が統合して第3次兵庫県が誕生した時期であり、森岡は継続事業である地租改正の断行、つづいて県会の開設準備を進め、府県会規則の公布とともに、1879(M12)2月から3月にかけて県会議員選挙を実施した。他に学校教師や生徒の新聞購読を禁じ、政治団体の演説会への弾圧、新聞記者の県庁舎への立ち入りを禁止するなど、政党活動を抑圧した。
1885.4.7 農商務少輔に転じたが、同日に非職し、政府出資の海運企業である共同運輸会社の第2代社長に就任した。同.9.29 激しい競争を行っていた郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併方針が出されると、日本郵船会社創立委員長に任命され、創立後は初代社長に就任した。沿岸近海航路からやがて遠洋定期航路を可能にする基礎を築いた。
1894.3 新定款の制定を機に社長を退いたが、取締役にとどまった。この間、1890.9.29 貴族院議員に勅選され、亡くなるまで在任した。1898.3.26(M31)臨終に際し、その勲功により森岡家は華族に列せられ男爵の爵位を叙爵した。正4位 勲3等。享年65歳。
<コンサイス日本人名事典> <朝日日本歴史人物事典> <近代日本の先駆者事典> <日本歴代知事総覧> <人事興信録など>
第188回 伏見 寺田屋事件 その3 剣豪から日本郵船初代社長 森岡昌純 お墓ツアー 薩摩尊皇派の挙兵を止めた鎮撫使 森岡善助
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