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もりおか まさずみ

森岡昌純

もりおか まさずみ

1833.1.10(天保4)〜 1898.3.26(明治31)

明治時代の内務官僚、海運経営者、男爵

埋葬場所: 22区 1種 37側 5番

 鹿児島出身。前名は森岡善助。1862(文久2)幕末期に寺田屋事件(薩摩藩尊皇派等の粛清事件)で攘夷派志士を倒して名を馳せた。この時倒された中に、橋口壮介(22-1-5)や柴山愛次郎(10-1-13-37)がいる。また、橋口壮介の弟の橋口吉之丞(22-1-5)も居合わせている。
 維新後、1871(M4)長崎県権大参事、1872飾磨県参事、1874飾磨権令を経て、1876兵庫県権令(第8代)として着任。 商業学校を創ることを計画し、翌年神戸商業講習所を設立した。1878権令廃止に伴い、兵庫県県令となり、約8年半兵庫県政にたずさわった。 兵庫県政に着任した直後は、兵庫・飾磨・豊岡・名東(淡路)の四県が統合して第3次兵庫県が誕生した時期であり、森岡は継続事業である地租改正の断行、つづいて県会の開設準備を進め、府県会規則の公布とともに1879(M12)2月から3月にかけて県会議員選挙を実施した。
 1885農商務少輔に転じ、政府出資の海運企業である共同運輸会社の第2代社長に就任した。 激しい競争を行っていた郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併方針が出されると、日本郵船会社創立委員長に任命され、創立後は社長となり、沿岸近海航路からやがて遠洋定期航路を可能にする基礎を築いた。 1894新定款の制定を機に社長を退いたが、取締役にとどまった。この間、1890貴族院議員に勅選された。1898(M31).3.26に男爵の爵位を授爵した。正四位 勲三等。享年65歳。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>
<近代日本の先駆者事典>
<日本歴代知事総覧>


*正面「正四位勲三等男爵森岡昌純之墓」、左側に「森岡家先祖累代之墓」、右側に「正四位男爵森岡彦之墓」、その右横に墓誌が建つ。

*森岡昌純以降の男爵継承者は、森岡彦→森岡けい一郎である。(「けい」の字は「金圭」の一文字)

*兵庫県の歴代県知事では8代目とされている。任期は1876.9.9(M9)〜1885.4.7(M18)である。なお、前任(7代目)は神田乃武(2-1-2-10)の養父の神田孝平である。多磨霊園に眠る兵庫県知事経験者は第17代の平塚広義(8-1-17)がいる。


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