石川県鹿島郡出身。関屋助衛門の4男。1930(S5)甥の勝雄方より分家した。
第4高等学校を経て、1914(T3)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し和歌山県郡書記となる。
和歌山県警視、和歌山県郡長、滋賀県理事官、京都府理事官、岐阜県警察部長を歴任し、'31.12(S6)北海道庁拓殖部長となり、同.12.14新潟県内務部長に就任した。この時、小幡豊治知事の施政を助けた。
'32.6.28(S7)齋藤実内閣の成立に伴い第32代山梨県知事に就任〔1932.6.28-1935.1.15(在任2年7か月)〕。次いで、'35.1.15(S10)第26代熊本県知事に就任〔1935.1.15-1936.4.22(在任1年3か月)〕。
次いで、'36.4.22(S11)内務部長として小幡知事を支えた新潟県に来任し、第31代新潟県知事に就任〔1936.4.22-1938.6.24(在任2年2か月)〕。
最後は、'38.6.24(S13)第26代兵庫県知事に就任〔1938.6.24-1939.4.17(在任10か月)〕。知事在任中に阪神大水害が発生した。
これは'38.7.3〜7.5に神戸市及び阪神地区で3日間、激しい雨が止まずに降り続け、各河川流域で決壊、浸水、土石流などの土砂災害が相次ぎ、交通網や通信網が寸断され都市機能が麻痺した大水害である。
この災害で死者616名、家屋の倒壊・流失3623戸、埋没家屋854戸、床下浸水した家屋は56712戸という被害を受けた。関屋は直ちに救急に着手し、広く官民各方面の協助を求め、対処の方策を取り善後の処置に於て万全を期した。
この災害に対して昭和天皇から御内帑金を下賜されたことに、関屋は聖恩に応え奉るべく県民の嚮うべき大道を宣示。「百折不撓の勇気もて 巨艱克服に努力せよ」と告諭を発した。知事在任一年弱であったが、被害を乗り越え復興の礎をつくり本官に免ぜられた。
その後、日本百貨店組合理事長に就任。戦後は、'47(S22)より弁護士として活動。正4位勲3等。享年87歳。