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はしぐち きちのじょう

橋口吉之丞

はしぐち きちのじょう

1843(天保14)〜 1868.12.3(明治元)

幕末期の薩摩藩士、尊攘派の志士

埋葬場所: 22区 1種 5側

 薩摩(鹿児島県)出身。薩摩藩士の橋口彦次・イサ(共に同墓)の次男。名は次郎。兄は寺田屋事件を共にし闘死した橋口壮介(同墓)。 大久保一蔵らの結成した精忠組に加わり、有馬新七や兄の壮介、柴山愛次郎(10-1-13-37)らと行動をともにして過激な尊攘思想に傾斜。
 1862.5.21(文久2.4.23)寺田屋事件に関与。有馬新七と鎮撫使の道島五郎兵衛の戦いで、有馬の刀の刃が折れ、有馬が道島に組み付き壁際に押さえつけた際、たまたま二階から降りてきて居合わせた吉之丞が有馬の助勢をしようと思うも狼狽えていた時に、有馬が「橋口、オイごと刺せ」と指示を出し、吉之丞は言われるまま、有馬の背中から道島の身体へ刀を突き入れ、壁まで通し、双方ともに絶命させた。 この時、吉之丞は弱冠20歳である。鎮撫使には森岡善助(後の昌純。22-1-37-5)も居合わせていた。
 事件は薩摩藩内の尊攘激派が一掃され、吉之丞は捕縛。薩摩に戻されて謹慎させられた。1868(M1)事故があったために切腹させられた。享年25歳。大円寺に葬られた。後、多磨霊園に改葬ないしは分骨。


墓所 碑

*墓石は和型「橋口家之墓」、裏面「昭和十年二月 橋口巳二 建之」。左側に橋口吉之丞こと橋口次郎と刻む古い墓石が建つ。右側に墓誌があり、前面は橋口兼柱から始まり、母のイサ、「長男 壮介」には「伏見寺田屋闘死」と刻み、次いで「二男 次郎」と刻み、以降代々が刻む。

*墓誌の裏面には西郷隆盛の揮毫の、「奥羽鎮撫府陽春艦舩将 辞世 橋口次郎 伴兼寛」と題した辞世の句碑が刻む。

 さくらばな ちるをさかりと しりつつも こころにかかる よはのはるさめ

最後に「平成二十八年三月 橋口昭利 睦子 改修」と刻む。
 なお、橋口次郎こと橋口吉之丞は、1862 兄の壮介と寺田屋事件に関与し、事件後は薩摩藩内の尊攘激派が一掃され捕縛。薩摩に戻されて謹慎させられ、1868(M1)事故により切腹させられた。この時に詠んだ辞世の句である。

*橋口壮介、吉之丞(次郎)が没し、橋口彦次(兼柱)以降の男児の家督継承者が途絶えたため、兼綱(同墓)を養嗣子として迎えるも早死。 そこで、彦次の四女テイ(同墓)の夫の兼利(同墓)が婿養子となり橋口家を継承。その子で橋口家を継いだのが、日本で初めて再生ゴムを製造販売した橋口巳二(1881‐1961.12.20 同墓)である。 橋口巳二は1919(T8)亀戸ゴム製造所を設立し、翌年、日本初の再生ゴム製造販売を行う。'32(S7)亀戸ゴム製造所社長、日本護謨協会設立に参画。 '50(S25)株式会社 平泉洋行の設立に伴い社長に就任。日本再生ゴム株式会社取締役社長も歴任。享年80歳。 なお、巳二の長男の克巳(同墓)は陸軍中尉、次男の兼貞(同墓)は海軍少佐として共に太平洋戦争で戦死。


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