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はしぐち みじ

橋口巳二

はしぐち みじ

1881(明治14)〜 1961.12.20(昭和36)

大正・昭和期の実業家

埋葬場所: 22区 1種 5側

 鹿児島県出身。橋口家は寺田屋事件に連座した橋口壮介(隷三:文久2.4.23歿・享年23才:同墓)が闘死し、共にした次男の橋口吉之丞(次郎:M1.12.3歿・享年25才:同墓)も若くして没し、父である薩摩藩士で鹿児島県権大参事の橋口兼柱(彦次:M5.3.14歿・享年58:同墓)が亡くなったことで、男児の家督継承者が途絶えた。そのため兼綱(M8.6.9歿・享年28才:同墓)を養嗣子として迎えるも早死。そこで、兼柱の四女テイ(S3.5.4歿・享年73才:同墓)の夫の兼利(S11.8.27歿・享年82:同墓)が婿養子となり橋口家を継承。その子として誕生し家督を継いだのが巳二である。
 1900(M33)渡米し、11年間滞米生活を送り帰国。帰国後は、1911 知人と「おしめカバー」などを取扱う店を銀座で営み、これがゴムに注目するきっかけとなる。当時のゴム引布は製造も技術も未熟で薄層のものは殆ど製造されていなかった。ゴムを取扱っている会社に当たるも思うようなものができなかったため、自らゴム引布の製造を行おうと、麻布の寄席の2階を借りて試作を始める。エンドレスの手回しのゴム引布製作機をつくってもらい、ゴムを練って車を回しゴム引き作業をした。ところが、大量の揮発油を使用するため火災の危険があるという理由で麻布警察署から立ち退きを命ぜられた。'14 蒲田の亜細亜ゴム工場を買収して、大正ゴムを知人との共同経営として設立。ゴム引布の製造を開始した。
 '19(T8)独立して亀戸ゴム製造所を設立。ゴム引布と再生ゴム、スポンジゴム、字消しゴム、足袋底ゴムなどの製品を取扱った。ちょうどその頃、ドイツ語が堪能であった実弟の兼導(陸軍中尉)から、第一次世界大戦で捕虜となったドイツ人(青島で捕虜となり習志野の捕虜収容所に収容されていた)がバイエルの加硫促進剤について話した内容を聞き、欧米では有機加硫促進剤が工業的に使われていることを知る。日本では加硫に時間のかかる無機薬品が使用されていた。そこで、'20ドイツとの通商が再開されるとドイツの有機ゴム用薬品(加硫促進剤及び老化防止剤)を輸入した。最初は使用法の詳細もわからず失敗の連続であったが、ゴム靴の肝ゴムなどに利用して我が国で有機加硫促進剤を使用して初めてゴム靴の甲ゴムの製造に成功し、日本初の再生ゴム製造販売を行う。
 自信を付けた巳二はバイエルのゴム用薬品の輸入販売を決意。知人が神田で営業していた「平泉洋行石炭部」の一室を借り「平泉洋行薬品部」の商号で営業を始めた。その石炭部の経営者は岩手県平泉の出身。この「ひらいずみ」の読みを、巳二はドイツとの通信を考え、長い「HIRAIZUMI」ではなく短く発音も容易な「HEISEN」にした。平泉洋行「HEISENYOKO」の名称はここに由来している。
 '21バイエル社と代理店契約を締結。'23関東大震災を乗り越え、'24平泉洋行薬品部(合資会社)を設立し、バイエル社ゴム薬品の日本総代理店としてゴム薬品のPR、販売活動を行う。当時の日本のゴム業界は、無機薬品を使用し旨て加硫し、時間も一時間以上費やしていた。平泉洋行は僅か数分で加硫することができる有機促進剤の使用を勧めたので、効果に疑心を持つ人も多く、また従来使用している設備や金型が無駄になることを恐れなかなか採用されなかった。
 '27(S2)バイエル社ゴム薬品の東洋総代理店資格を取得。日本のゴム工業発展のためにバイエル社のカタログやパンフレットを翻訳して顧客に配布し、'28実証のため亀戸工場にゴム研究所をつくり、広く業界に開放して他社の技術者にも自由に利用させるなど、わが国のゴム工業発展や啓蒙指導に尽くした。'30頃にはゴム薬品は一般的に使用されるようになり、新興化学工業や川口化学工業、日本染料などの会社がゴムメーカとして進出してきた。'32亀戸ゴム製造所社長に就任し、日本護謨協会設立に参画。技術サービス機関誌として月刊誌「ゴム」を創刊。バイエル社の研究資料に基づき現場作業に直接役に立つこと、ゴム技術の問題点、促進剤や老化防止剤の使用法の紹介、試験研究の成果などの発表を扱った。この機関誌は日本のゴム業界の有益かつ貢献は大きかったが、'42戦争激化に伴い第112号で終刊。
 '33亀戸ゴム製造所を亀戸ゴム工業株式会社、平泉洋行薬品部も株式会社に組織変更。'34アルカリ再生ゴム研究で、商工省から工業研究奨励金を受け、別組織として日本再生ゴム株式会社を設立した。'37.3 亀戸ゴム工業株式会社の工場がスプレッターの静電気のスパークで出火し全焼。軍需工場に指定されていたため、別の倉庫を買収し半年後には再開させる。この時に従業員による争議が起こる。争議団長はガマ将軍として有名な共産党の南喜一であったが、交渉の席で巳二と意気投合し、わずか3日で解決させた。以降、親密となる。意気投合した理由は、企業の在り方として労使協調よりも、社会・組織の構成員同士が互いに助け合う相互扶助(そうごふじょ)の考えで一致。平泉洋行の企業理念「三良主義」である。
 '39ゴム試験研究所を東京の尾久町に移転させ、試験設備を国内ゴム業界発展のため開放する。'43戦時中は国策に沿い、ゴム試験研究所を大日本ゴム研究所の母体として寄贈。薬品の輸入が困難となり業務を停止した。また空爆により亀戸ゴム工業、日本再生ゴム、平泉洋行のすべての施設が被災し灰と化した。
 戦後、'50.6.29 日独通商協定成立にともない、バイエルゴム薬品の輸入を再開したことで、株式会社平泉洋行を設立して社長に就任。この時、国策パルプ会長として経済界で活躍していた南喜一が会社を再開するにあたり発起人となり、株主・取締役として支援した。'55 バイエル社のポリウレタン技術導入を仲介、原料の輸入販売開始。その後も発展し、2019(R1)株式会社平泉洋行は100周年を迎えた。享年80歳。

<我が国ゴム工業揺藍期と大戦後復興の一側面
(平泉洋行小史1創業から終戦まで)橋ロ昭利>
<ゴム報知新聞【社名あれこれ】ゴム企業会社名の由来「平泉洋行」>


墓所 碑

*墓石は和型「橋口家之墓」、裏面「昭和十年二月 橋口巳二 建之」。左側に橋口吉之丞こと橋口次郎と刻む古い墓石が建つ。右側に墓誌があり、前面は橋口兼柱から代々が刻む。

*墓誌の裏面には西郷隆盛の揮毫の、「奥羽鎮撫府陽春艦舩将 辞世 橋口次郎 伴兼寛」と題した辞世の句碑が刻む。

 さくらばな ちるをさかりと しりつつも こころにかかる よはのはるさめ

最後に「平成二十八年三月 橋口昭利 睦子 改修」と刻む。
 なお、橋口次郎こと橋口吉之丞は、1862 兄の壮介と寺田屋事件に関与し、事件後は薩摩藩内の尊攘激派が一掃され捕縛。薩摩に戻されて謹慎させられ、1868(M1)事故により切腹させられた。この時に詠んだ辞世の句である。

*巳二の妻はキクヱ(S53.7.8歿・満88才)。長男の克巳(S19.9.11歿・30才:同墓)は大陸打通作戦に参加し中支衡陽付近にて戦死、陸軍中尉。次男の兼貞(S19.2.6歿・27才:同墓)は南太平洋クェゼリン島での日本軍の守るクェゼリン環礁へアメリカ軍が侵攻して行われた戦闘において戦死、海軍少佐。四男の國彦は(S6.4.5歿:同墓)生後9カ月で早死。三男の橋口昭利(1927-2016.4.30・89才:同墓)は高千穂中を経て、海軍兵学校(76期)を卒業、工907分隊に属し終戦を迎え、戦後は、父が創立した平泉洋行にて代表取締役社長、会長を歴任した。2016.5.9 葬儀は落合斎場にて社葬・橋口家の合同葬として執り行われた。葬儀委員長は平泉洋行代表取締役社長の戸張傳二郎、喪主は妻の橋口睦子が務めた。


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