本籍は高知県。号は恩軒。弟にローマ法学者の原田慶吉(同墓)、国立のハンセン病療養所の中に長島聖書学舎を設立した牧師の原田季夫(同墓)がいる。
第6高等学校文科を経て、1926(T15)東京帝国大学文学部国史科卒業、大学院に進んだ。'27(S2)旧七年制私立武蔵高等学校文化学部教授となり、国史を担当。山岳部の育ての親、また蹴球部の顧問なども務める。'28阿国歌舞伎の内容とその発展を中心として書いた『近世日本演劇の源流』(至文堂)を刊行。他に『平安時代の藝術』(1934)や『弘仁芸術の背景』がある。
多くの生徒から慕われ、歴史に興味を持つ生徒を輩出した。病のため在職中に逝去。享年41歳。校長の山本良吉は、1938.2.15(S13)釈迦の涅槃会(ねはんえ:陰暦2月15日釈迦の入滅の日)の日を選び、追悼会を開いた。その席上、『原田教授追悼』と題して次のような話をした。
「生徒の中には先生に幽霊になってでももう一遍でてもらいたいと思う人があるそうであります。これは大変面白い心持である。幽霊になって今一度出て欲しいと思うその心の中には先生はチャント出ておられる。先生の働きはいつも生徒の頭の中に生きている。一度は人は死ぬべきもの、死ぬるのが人間の運命である。・・・『人は一代、名は末代』とか申しますが、名はやはり人の心の中に存在するのである。生きている間からわが名を後に伝えようと思っても、伝わるものではない。人は誰でもできる事は、自分自らを歎かない、誠実の一生を送ることだけである。もし自分の誠実が真に誠実であるならばそれが人心を感ぜしめぬはずはない。人が感心すればそれは永遠にその人の心中に生きて行く。それが長命であり、永遠である。君たち若い者は沢山仕事をしなければならぬが、もしその仕事中において真の誠実がこもっておれば、それで長命できたのである。今日死すとも早からず、百年の生を保つとも長からず、三千年前に死んだ釈迦は今もわれ等の心の中に生きている。原田先生も同様に君方の頭の中には永遠に生きておいでになる。人は長命を望むに及ばぬ。しかし誠だけはいつも持ちたい。」
原田が担任をつとめたクラスの生徒が集まり、構内に「恩軒森」と命名し記念植樹をした。これは当時の渾名の「オンケル」にちなみに「恩軒」を雅号としていたところからである。山本良吉校長の詩碑も建之され、現在も高校中学図書館棟南の森の中にある。
また、原田が亡くなって以降、教え子たちによる多くの追悼文、思い出の記が寄せられた。後に歴史学者になる太田晶二郎や、西洋史学者になる三浦一郎らも追悼文を発表している。山本良吉は一年後、校友会誌に『盆灯籠』と題して次のように書いている。
「人が死ぬると追悼文を書くことがはやる。追悼文は墓と同じである。死んだ人には全く無用だが、生きている人の自己満足には必要である。生前に大したつき合いもなく、中には私の顔を見ると避けて行く人などのために追悼談を書けよといわれることが時々あるが、これはかなり苦痛である。それでも書けよといわれると、何か書かねばならぬ。こんな不憶の追悼談が何になるかと思いながらも書く。浮世の義理は是非もないが、私は死んでも決して追憶風の事はしてほしくもない。私自身が後に遺(のこ)るべき何事をもしないのに、誰の力で、誰の筆で私を遺し得よう。生きている間は、これでもせい一ぱい働いているつもりである。死んだら白雲に乗って無何有の郷に消え去りたい。毛一筋もこの世に遺したくない。私の墓について色々心配される方がある。自分は墓も造りたくないが、娘共も欲しいといい、他にもなくてはならぬという方がある。」
上記を書いた山本良吉が '42校長在任中に狭心症のため急逝したとき、教え子や父兄たちが多くの追悼文を寄せている。原田も山本良吉も教え子たちの中に生き続けていたからに違いない。