本籍は高知県。兄に教育者の原田亨一(同墓)、法学者の原田慶吉(同墓)がいる。旧制高校のときに突然体調を崩し「ハンセン病ではないか」と不安にさいなまれた経験があり、結果的に違っていたが、この記憶が50歳になり行動へと移す。長らく勤めた電電公社を退職し、好善社(教育宣教師ヤングマン女史と教え子で設立されたハンセン病患者の支援を行うボランティア団体)に専念。
1958(S33)岡山県瀬戸内に浮かぶ長島の療養所へ赴いて、キリスト者として生きぬことを誓い、全くの奉仕(無収入)で長島愛生園(1931国立らい療養所第一号として設立)の長島曙教会牧師に就任。同年、愛生園の精神科医療に着手しハンセン病患者の治療に生涯を捧げたことで知られる精神科医の神谷美恵子が精神科医長となっている。神谷美恵子の父は前田多門(16-1-3-7)である。'60全国療養所11教会を巡回伝道。著書『文化と福音』を刊行。
'61長島愛生園曙教会にハンセン病療養者の中から伝道献身者を求め、「病者による伝道」(Mission of Lepers)の実現のために伝道者を養成しようと、「長島聖書学舎」という神学校を創設し校長となる。着任より構想はあったが、国立の施設の中に神学校を設立するためには約3年間の年月がかかるも、苦労が実り開校し、ハンセン病の人々のために働く聖職者を養成した。運営費は好善社が担った。当初の計画では3年間のコースを3期まで開校するという予定であり、開校のときには全国各地の療養施設から8名の学生が集まった。結果、3期20人を教育。
この頃より原田はガンで体調を崩す。心配する周囲の声にも「87円しかないから」と言って入院を断る。多くの方々の寄付により手術をしたが時すでに遅し、58歳で逝去。
葬儀に出席した松村克己教授は当日の式次第に次のようなメモを残している。≪彼はわが誇る友の一人。意志の人、清められて修道僧の如く生きた。げに Weber の innerweltliche Askese(内的禁欲)を生きた人。淡々として信仰を決断と待望として生きた。信仰と決断と強調する人は多いが、それを待望と忍耐として証しする人は少ない。(1969年1月9日)≫
原田没後、神学校は播磨醇が校長として継承し、'71閉校した。宇佐美伸 編『原田季夫遺稿集』(1977)、好善社 著『原田季夫と長島聖書学舎 : 書簡集』(1990)がある。
<好善社の活動年表> <ハンセン病問題に関する事実検証調査事業 第22回検証会議など>
*墓石は洋型「悠久」。左面に「平成二十七年九月建之」と刻み最近建替えられた。左側に墓誌もあり、氏名・没年月日・享年が刻む。
【ハンセン病】
人類の歴史上もっとも古くから知られ、恐れられてきた病気の一つである。1873年に「らい菌」を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前をとり、ハンセン病と呼ばれるようになる。らい菌(Mycobacterium leprae)が主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症で、ハンセン病患者の外見と感染に対する恐れから、患者たちは何世紀にもわたり社会的烙印(スティグマ)を押されてきた。ハンセン病の感染力は弱く、ほとんどの人は自然の免疫があります。そのためハンセン病は、“最も感染力の弱い感染病”とも言われている。現在は治療法が確立され完治する病気である。
日本では古い時代から患者には、家族に迷惑がかからないように住み慣れた故郷を離れて放浪する「放浪らい」と呼ばれた人が数多く存在した。明治時代に入り「癩予防に関する件」「癩予防法」の法律が制定され、隔離政策がとられるようになり、ハンセン病患者の人権が大きく侵害された。第二次大戦後も強制隔離政策を継続する「らい予防法」が制定。その後、完治する薬が発明され、元患者らの努力等によって「らい予防法」は1996年に廃止、2001年に同法による国家賠償請求が認められた。
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