神戸出身。本籍地は高知県。兄に教育者の原田亨一(同墓)、弟に国立のハンセン病療養所の中に長島聖書学舎を設立した牧師の原田季夫(同墓)がいる。
兵庫県立神戸第一中学校、第六高等学校を経て、1926(T15)東京帝国大学法学部英法科卒業し、同大学で助手となる。春木一郎、中田薫に師事。'29(S4)助教授、大学では羅馬(ローマ)法講座を担当。'36〜'38ドイツのベルリン大学に留学。ドイツでは楔形(くさびがた)文字法の第一人者の法制史家パウル・コシャーカー(Paul Koschaker)のもとでユスティニアヌス法・楔形文字法を学ぶ。
「学説彙纂(いさん)」の法文が、真にローマの法学隆盛時代のものかどうかの研究に本格的に取り組みつつ、ローマ法学が今日の法律学にいかに寄与すべきかという観点から法典、法原則の成り立ちを、徹底した実証的手法で歴史的に追究した。また、固有のローマ法を明らかにするため、楔形文字法、パピルス学、アッシリア学を修め、ローマ法体系やその基本原理の解明に努め、この分野で日本における先駆者として研究の視野を拡大し、日本のローマ法学の水準を高めるため決定的役割を果たした。
'39教授。'42東北帝国大学法文学部講師を嘱託、冬休みなどの期間を利用して集中講義を行った。戦後、'49日本法制史学会の設立に尽力し初代の代表理事に任命された。
主な著書に『羅馬私法綱要』(1933)、『羅馬法制史序説』(1935)、『羅馬私法綱要』(総則・親族)(1935)、『羅馬法講義案』(物権・債権)(1938)、『羅馬私法綱要』(相続・法律行為)(1939)がある。特に厳密な文献批判的方法に立った『ローマ法』(1949)、アッシリア学上の業績として『楔形文字法の研究』(1949)、エッセー風にローマ法文化を描いた『ローマ法の原理』(1950)などがある。『楔形文字法の研究』は朝日文化賞を受賞。語学は、西欧諸語、ギリシャ・ラテン両語のほか、シュメール・アッカド・ヒッタイト・ヘブライ・アラビアの諸語にも精通していた。
'50戦後間もない生活苦と、税務署からの10数万円の税の督促があり、強度の精神衰弱に陥り追い詰められ、自宅の勝手口の鴨居で首吊り自殺した。享年47歳。なお税務署から高額な税金の請求に関しては、妻が税務署に確認をしたところ手違いだったことがわかったという。没後、'54創文社から雑誌論文を単行本としてまとめた『日本民法典の史的素描』が刊行された。