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うえむら やすじ

植村泰二

うえむら やすじ

1896(明治29)〜 1971.5.9(昭和46)

大正・昭和期の実業家(東宝映画)、
映画技術の尽力者

埋葬場所: 11区 1種 13側

 北海道札幌出身。祖父は旧幕臣で甲府勤番の武士の植村厚十郎(8-1-13)。父は札幌麦酒・大日本麦酒の経営者の植村澄三郎・誠(共に8-1-13)の次男として生まれる。兄に経団連会長を務めた財界人の植村甲午郎(8-1-13)。甥に固体物理学者の植村泰忠(8-1-13)や仙台放送会長を務めた植村泰久がいる。
 北海道大学農学部卒業。1919(T8)菊地東陽(19-1-8)がオリエンタル写真工業を泰二の父の植村澄三郎の協力で創立し、澄三郎が会長に据えると同時に、泰二は写真乳剤の研究者として入社。後に取締役になる。 '21オリエンタル写真工業は国産初の人像用印画紙の製造に成功。この写真印画紙の製造を開始したが全く売れず、在庫山積という状況で困却の時に、'23関東大震災が発生し印画紙不足で在庫品が売れ、窮地が打開された。製品としての印画紙には「オリエント」「ピーコック」「OK」がある。この間、泰二はドイツで写真化学を研究しているドクター・キーザーの助手となって学んだ。
 '29(S4)泰二と増谷鱗は現像とトーキーの光学録音の機材の研究、実際の撮影現場での録音の請負を目的として、写真化学研究所(株式會社冩眞化学研究所)を設立、社長に就任した。当時の日本の映画界は活動写真と言われ、「活弁」と呼ばれた「弁士」が映画館にいて無声映画のストーリーの説明をしたり、出演者のセリフを肉声でしゃべったりしているサイレント映画の全盛時代であった。録音技術の発展の途上であるため、画面に応じて音や声が聞こえる「トーキー」製作に腐心をしており、録音の請負受注もままならなかった。父が経営する大日本麦酒などの出資企業に支えられ前進を続けた。
 '32研究所内に2つのトーキーステージを持つレンタルスタジオを建設、トーキーの製作に意欲のある映画監督の木村荘十二、森岩雄を招いて、劇映画の自社製作を開始した。'33 第1作『音楽喜劇ほろよひ人生』は、活動弁士だった徳川夢声(2-1-7-48)を主演にしたミュージカル・コメディで、東和商事映画部(東宝東和)の配給で公開された。同.11.23 第2作はオリエンタルポジフィルムを使用し、国産フィルムによる初の映画『純情の都』を公開。同.12.5 「録音・現像」を除く製作部門を子会社として分離、株式会社ピー・シー・エル映画製作所(PCLとは『Photo Chemical Laboratory』:「フォト・ケミカル・ラボラトリー」の略)を設立、増谷が社長に就任、森は製作部長、木村はメイン監督となった。
 「ピー・シー・エル映画製作所」はやがて自主配給を始め、冒頭の「P.C.L.ロゴ」とともに、 『製作・配給 ピー・シー・エル映画製作所』『録音・現像 冩眞化学研究所』とクレジットされる。当時としてはハイカラな喜劇やオペレッタの映画が多く、PCLは「ポーク・カツレツ・ラード揚げ」の略だと評された。PCLは三十五ミリ部門が東宝映画の前身となり、十六ミリ部門が朝日新聞社系の資本を加えて日本光音工業を設立。泰二は光学録音機械メーカー「日本光音工業」の社長も兼務した。
 この頃、井深大(17-1-8-7)は早稲田大学卒業後、泰二が社長を務める写真化学研究所に就職活動に来た。審査官の話を聞いて、井深大の「ケルセルの研究」を高く評価し、泰二はその場で採用をした。しかし井深の第一志望は東京電気(東芝)であったのでそちらを受けたが世界恐慌の影響で不採用となる。泰二から「責任を持たせて何でもやらせるから早くこい」と催促され、「自分の才能を思う存分活かして活躍できるなら、それの方がいい」と思い入社を決意したという逸話がある。
 '33より井深はPCL社員となり、その時の月給は「60円」、これは東京帝国大学卒業者並みの高給だった。この年の暮れには「90円」にアップされ、一人前の技術者として毎週開かれる「技術会議」への出席が許された。技術者として力を発揮したい井深は泰二に掛け合い、泰二が社長を兼務する日本光音工業株式会社に移籍。更に、'40日本光音工業株式会社の出資で、日本測定器株式会社を立ち上げ、泰二が社長、井深は常務に就任した。日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社であり、その縁で、戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合うことになる。
 '37.9.10(S12)「写真化学研究所」とその子会社の映画スタジオ「ピー・シー・エル映画製作所」、京都市太秦にあった大沢商会の映画スタジオである「ゼーオー・スタヂオ」(J.Oスタヂオ)と、阪急の小林一三が前年に設立した東京の映画配給会社「東宝映画配給」の4社が合併し、東宝映画(東寶映畫株式會社)を設立。初代社長に泰二が就任した。トーキーに特化した東西2つの映画スタジオをもち、東京・日比谷を中心とした興行網をもつ強力な会社となる。'39早坂文雄は泰二に認められて上京し東宝映画に音楽監督として入社した。旧ゼーオー・スタヂオは「東宝映画京都撮影所」として主に時代劇を撮影していたが、東京の施設拡大に伴い現代劇だけでなく時代劇も撮影できることになったことから、'41京都を閉鎖。また、'43.12.10東京宝塚劇場を合併させ、現在の「東宝株式会社」となった。
 戦時中は東京宝塚劇場と日本劇場は近藤至誠(8-1-15)が考案した風船爆弾工場となり、戦後は東京宝塚劇場が進駐軍専用のアーニー・パイル劇場と改名され、10年間観客としての日本人が立入禁止となるなど不遇を強いられた。このような背景もあり、'46先に東宝を退社した増谷と井深は盛田らを誘い東京通信工業株式会社(ソニー)を設立。資本金19万円は井深の義父の前田多門(16-1-3-7)と前田家と親交があった作家の野村胡堂(13-1-1-3)が出資し、前田が名誉職の初代社長、井深は専務、盛田が常務、増谷は監査役となる。ソニーは当初、真空管電圧計の製造・販売を行う会社からスタートしたが、'50日本初のテープレコーダー、'55日本初のトランジスタラジオを発表していくことになる。
 '51.3.16 泰二は、増谷と再度、同名の「株式会社写真化学研究所」を共同で設立し、社長となって、16ミリ映画の専門現像及びプリント業務を行う。'67増谷が亡くなる。'70井深が写真化学研究所をソニー傘下に入れ、社名を「ソニーPCL株式会社」と変更し現在に至る。翌年逝去。享年75歳。


墓所

*墓石は洋型「植村家」。裏面が墓誌となっている。植村泰二、娘の文、妻のマサの俗名、没年月日、享年が刻む。右面に「昭和四十六年九月建之」と刻む。植村家の墓石の右側に寝石の墓石が建つ。十字を刻み「植村文ここに眠る 昭和三十六年六月十九日」と刻む。

*植村文は泰二とマサの二女であり、25才の若さで没している。なお、墓石裏面の文の没年は昭和二十六年と刻み、墓所内墓石には昭和三十六年と刻むため、どちらが正しいか不明であるが、長男の植村泰一は昭和9年生まれから推測し、文は昭和36年没であろうと思われる。

*妻のマサ(S55没)は太田長佑の二女。泰二とマサの間に1男5女を儲ける。長男は植村泰一、長女は泰子、二女は文、三女は百合、四女は公、五女は富。

*長男の植村泰一(1934.3.24-)はフルート奏者として著名なフルーティスト。中学生の頃から川崎優に師事。1954東京藝術大学別科卒業し、'57慶應義塾大学文学部卒業。'59第1回リサイタルを行いNHK交響楽団へ入団。'64〜'66パリ音楽院、フライブルグ音楽大学へ留学。東京木管合奏団のメンバとして活躍。東京音楽大学学長・理事長を務め、多くの門下生を輩出。日本フルート協会副会長。'90NHK交響楽団を定年退職。作家の横溝正史と植村家が隣家であり、植村のフルートの練習を聴いて着想したのが、ミステリー小説『悪魔が来りて笛を吹く』の作品。'79この作品が映画化された時のテーマ曲「黄金のフルート」を吹いたのは植村である。

<音楽家人名事典など>


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