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うえむら こうごろう

植村甲午郎

うえむら こうごろう

1894.3.12(明治27)〜 1978.8.1(昭和53)

大正・昭和期の官僚、財界人

埋葬場所: 8区 1種 13側

 東京出身。祖父は旧幕臣で甲府勤番の武士の植村厚十郎(同墓)、父の植村澄三郎(同墓)は札幌麦酒の功労者。澄三郎と妻の誠の長男として生まれる。弟の植村泰二(11-1-13)は写真化学研究所や東宝映画初代社長を務める。泰二の長男で甥にフルート奏者の植村泰一(11-1-13)がいる。
 第一高等学校を経て、1918(T7)東京帝国大学法学部政治学科卒業。農商務省に入る。1年間志願兵として入営後、同省工場監督官から大臣秘書官となり5人に仕えた。'25欧州の基幹産業調査、'27(S2)新設された資源局の調査課長、重要資源調査に尽力。'37企画院調査部長、産業部長、第4部長を歴任し、日中戦争下の生産力拡充計画の立案にあたる。'40企画院次長となり、退官。外務省の通商顧問、独・伊の統制経済の実を視察し帰国。'41九州の石炭王の松本健次郎に請われて石炭統制会理事長に就任。
 戦後'45経団連の前身の日本経済連合委員会の副委員長兼事務局長となり、翌年、経連解散、全国経営者団体連絡協議会(経団連)の創立に参画し引き続き事務局長に就任した。しかし'47公職追放。'51解除後、経団連に復帰し、相談役を経て副会長に就任。'55植村が中心となって「経済再建懇談会」を立ち上げ、これまでの個々の企業による献金から、戦前からの岸信介ら商工省・企画院人脈との深い繋がりを利用し、経済界・財界から政界・自由民主党への今に至る画期的な献金システム(経団連方式)を整備した。'60日本商工会議所会頭の足立正らと発起人となり社団法人日韓経済協会を設立、自ら初代会長に就任した。'61ニッポン放送会長、'63日本航空会長を歴任。
 '68石坂泰三(13-1-1-9)の後を継いで経団連第3代会長に就任。副会長を5人から7人に増員し、集団指導体制の下で調整力を発揮。石油ショックや日米繊維交渉など内外の経済問題にとりくんだ。'74会長職を土光敏夫に引き継ぎ、名誉会長となる。この間、'72勲一等旭日桐花大綬章受章。松本清張の小説「深層海流」は植村甲午郎がモデルとされている。享年84歳。
 妻の淑(1899-1988 同墓)は富井政章男爵の娘である。長男の植村泰忠(同墓)は固体物理学者。長女の和子は渋沢栄一の孫の渋沢正一に嫁いだ。二男の植村泰久は仙台放送社長。

<講談社日本人名大辞典>
<コンサイス日本人名事典など>


墓所 碑

*墓所内正面に「植村家墓」、左側に植村厚十郎を筆頭に数基並ぶ。 右側に「澄三郎夫妻・甲午郎夫妻」、「泰忠」の刻がある墓誌二基並び、全面に名前と生没年月日、裏面に略歴がそれぞれ刻まれている。



第264回 石油ショックを乗り越えた 経団連会長 植村甲午郎 お墓ツアー


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