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うえむら ちょうざぶろう

植村澄三郎

うえむら ちょうざぶろう

1862.10.11(文久2)〜 1941.1.17(昭和16)

明治・大正・昭和期の実業家(サッポロビール)

埋葬場所: 8区 1種 13側

 甲斐(山梨県)甲府出身。甲府勤番の武士の植村厚十郎(同墓)の長男。 植村家は8代将軍吉宗の時代に甲府城の守備などに当たる甲府勤番を命ぜられ、一家を挙げて江戸から甲府に移り住んだ家系である。 甲府勤番は、ほとんど転任がないため江戸へは戻れず、その子孫も甲府勤番として勤めることが多かったことから、俗に山流しとも呼ばれていた。 厚十郎は最後の甲府勤番として従事。1868(M1)明治維新に際し一家は甲府を離れ、横須賀に転居した。澄三郎が6歳の時である。
 1876(M8)小学校を卒業し、母校で代用教員として勤め、また小田信樹の家塾にて漢籍を学ぶ。 1880父の知人の推挙もあり、開拓使の等外3等出仕に採用され、上京し、官途に就く。開拓使大蔵農商務北海道事業管理局(開拓使の東京出張所)に勤務。 1887開拓使が廃止され北海道庁が置かれたことにより本庁勤務のために北海道へ入る。開拓使麦酒醸造所の払下げ評価額を算定する任務を終えるや、辞表を提出して東京へ戻る。 逓信省に入り、累進して山形逓信管理局次長となる。1890開拓使時代の上司の推挙で、北海道炭礦鉄道の創立事務に従事し、同社経理部支配人となり実業界に入る。 同社の大口株主の中には、大倉組に払い下げられた麦酒醸造所を立て直すために誕生した札幌麦酒有限会社の会長の渋沢栄一がいた。 渋沢は、多額の損失金を出した札幌麦酒有限会社の建て直しに、開拓使の東京出張所時代から一目置いていた澄三郎を経営陣として迎え入れたいと要請。 澄三郎は、開拓使麦酒醸造所以来、縁が深いこの会社への入社をすぐに受諾し、1895専務取締役に就任した。
 札幌麦酒の実質的な社長として手腕を振るった。積極的な設備投資、原料麦の改良、ビール原料の大麦やホップの道内生産の整備、ガラスのビール瓶工場を建設など、ビールづくりのすべてを北海道産で賄う策に出た。 日清戦争によるビール景気の上昇も後押しした。のちに今後の販路拡大の先見による東京分工場の着工に取り掛かり、販売の指揮をとるために一家で札幌から東京へ転居。 澄三郎の尽力により、東京産の冷製ビールの出荷を始め東京進出を果たし、製造量で業界トップへと躍進させた。 この間、1900欧米を視察し、化学工業の振興が急務であることを痛感。帰国後は化学工業の育成にも力を注ぎ、30余の化学会社設立に中心的な役割を果たす功績を残した。
 1906国の命によりサッポロ、アサヒ、ヱビスの三社合併による大日本麦酒株式会社が設立。澄三郎は常務に就任した。 馬越社長につぐナンバー2として、1930(S5)までの24年間も大企業経営の重責を担った。 オリエンタル写真工業の設立にも参画し、息子の植村泰二に写真乳剤の研究を従事させ、また、'29日清製粉株式会社取締役社長の正田貞一郎(15-1-1-23)と発起人となり、わが国最初の製パン用イースト製造会社であるオリエンタル酵母工業株式会社の設立を行った。享年80歳。

<講談社日本人名大辞典>
<植村澄三郎小伝(サッポロビール120年史)など)>
<墓誌より>


墓所 碑

*実父は大橋太郎左衛門永由という説もあり、その三男として生まれ、植村家に養子に入ったともいわれる。陸軍軍医監となった前田政四郎(1854-1922.4.4 染井霊園)は四男であり、前田吉右衛門道雅の養子に入り、前田家の5代目当主となった。よって、澄三郎と前田政四郎は兄弟であるという文献もあるが、生年月日が合わないため詳細は不明。なお、植村家墓誌に刻む略歴には「植村澄三郎は旗本植村厚十郎の長男にして文久二年甲府櫻小路の宅に生まる。」と刻む。

*和歌山県出身の中島誠(1874-1961.11.6 同墓)と結婚。長男の植村甲午郎(同墓)は経団連会長を務めた財界人。二男の植村泰二はオリエンタル写真工業を経て、東宝映画社長となった。なお、甲午郎の子であり孫の植村泰忠(同墓)は固体物理学者。二男の植村泰久は仙台放送社長。長女の和子は渋沢栄一の孫の渋沢正一に嫁いだため親類関係となった。

*多磨霊園には札幌麦酒を発展させた植村澄三郎、朝日麦酒を発展させた山本為三郎(14-1-2)、麒麟麦酒を設立した米井源治郎(2-1-1-7)が眠る。現在の大手ビール三社(サッポロビール・アサヒビール・キリンビール)を築いた人物が同霊園に眠る。


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