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よねい げんじろう

米井源治郎

よねい げんじろう

1861.10.19(文久1.9.16)〜 1919.7.20(大正8)

明治・大正期の実業家(明治屋・麒麟麦酒)

埋葬場所: 2区 1種 1側 7番

 美作国(岡山県津山市下高倉東)出身。豪農の米井仲平の次男として生まれる。蘭学者の仁木永祐の籾山校に学ぶ。後津山藩の豪商の磯野氏の世話になり、苦学ののち、1887(M20)慶応義塾を卒業。
 卒業後、又従兄弟の磯野計(はかる)が創業し経営していた食料品輸入販売業の磯野商店(後の明治屋商店)の店員となり、後に大番頭として活躍していく。1888 ジャパン・ブルワリー・カンパニーが製造していた「キリンビール」の販売の総代理店契約を結んでいる。
 1897 磯野計は39歳という若さで病没。残された一人娘の菊は、まだ数え12歳で、磯野の妻も既に亡くなっていたため、磯野の遺言により米井が遺児の菊の後見人となり、明治屋の経営を継ぐことになった。
 米井は明治屋の発展に努め、手腕が三菱財閥の岩崎久彌に認められ信頼され、日露戦争当時には、イギリス産の無煙炭を海軍に納入した。1900 合資会社明治護謨製造所(明治ゴム化成)の創業に尽力して社長に就任。一方で、キリンビールを製造していたジャパン・ブルワリーが磯野没後も継続するか社内で意見が分かれていたが、米井を信頼していた三菱財閥の豊川良平が米井の保証人となることで継続が認められている。この頃、札幌麦酒の東京進出や麦酒税法の施行が決定したことを受け、1901 競争力向上を目指し、ジャパン・ブルワリーと明治屋は契約改定し、手数料以外に割戻金も明治屋に支払われるようになった。
 1902 後見人を務める磯野菊子の婿に、磯野商会部長の松本長蔵を迎えた。1903 豊川良平の勧めもあり、松本長蔵を明治屋に入社させ、同年、米井と松本の両社が出資する合名会社に改組し、米井は明治屋社長となる。さらに、1911 株式会社に改組して引き続き社長を務めた。なお、1897 磯野と共同で設立した鉄や機械の輸出入業の磯野商会を、1906 米井商店(株式会社ヨネイ)と改めて社長に就任。
 1907 近藤廉平、瓜生震らとともに、三菱銀行の岩崎久彌の個人的支援の下で、ジャパン・ブルワリー・カンパニーを買収し、新会社の麒麟麦酒株式会社を設立して初代専務取締役に就任した。明治屋を専売店として麒麟麦酒の発展に尽くした。他に桜セメント・日本硝子工業などにも関係した。病気のため逝去。享年57歳。葬儀には、天台宗の大僧正をはじめ多くの政界人や財界人が参列した。なお米井の死去に伴い、明治屋の社長は松本長蔵、麒麟麦酒の専務には井田清三が後任として選ばれた。

<日本近現代人名辞典>
<キリン歴史ミュージアム:人物コラム 米井源治郎>
<人事興信録>
<米井源治郎之碑文より>


*墓石正面「米井家之墓」、裏面に略歴が刻み、長男の米井信夫が建之したことが刻む。墓誌などはない。なお妻はツルマツ。3男3女を儲け、長男は米井信夫。長女の喜代は米井商店営業部長を務める松村昇に嫁ぐ。二女は千代は林学博士の志賀泰山の三男の医学博士で北海道帝国大学教授の志賀亮に嫁ぐ。二男は次夫は分家。三女は三千。三男は正夫。

*長男の米井信夫(しのぶ:M28.8-)は、一高を経て、1919(T8)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、大学院に進む。同年7月に父の源治郎が亡くなり家督を相続。そのため父の会社の重役に列せられる。のちに米井商店社長、明治護謨製造所社長、明治屋取締役を務めた。

*郷里の岡山県津山市下高倉東上塩に「米井源治郎之碑」が建つ。



第267回 麒麟麦酒・キリンビールを発展させた人 米井源治郎 お墓ツアー


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