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やまもと ためさぶろう

山本為三郎

やまもと ためさぶろう

1893.4.24(明治26)〜 1966.2.4(昭和41)

大正・昭和期の実業家(朝日ビール)、芸術愛好家

埋葬場所: 14区 1種 2側

 大阪府船場出身。1909(M42)16歳の時に父の隠居に伴い、家業のガラス工場を継いだ。小西儀助商店主が後見人となる。 '12(M45)北野中(北野高)卒業。京大講師の英人フランクリンの個人教授を数年間にわたって受ける。 '17(T6)アメリカ視察を行い、半自動製壜機を輸入して日本製壜を創設、専務になる。 さらに'21帝国鉱泉などと合併し日本麦酒鉱泉を設立、常務となる。'33(S8)さらに合併した大日本麦酒の常務に選ばれた。 当初は製壜業の得意先回りを行ない、その際に大阪麦酒の吹田工場長の高橋龍太郎(後の大日本麦酒社長)との出会いが出世の拍車をかけた。 また若くしてロータリークラブや清交社等の社交界で人脈を築いた。
 戦時中は配給統制に尽力。戦後'47大日本麦酒の専務に就任するも、GHQの酒類醸造停止の指令解除に奔走、ビール産業を死守した。 またGHQの過度経済力集中排除法の指令による大日本麦酒の東西分割のさい、分離委員会の委員長になり、東京以東を日本麦酒(現・サッポロビール)、東京以西を朝日麦酒(現・朝日ビール)に分割する実務を担当。 資産、テリトリーを物理的に2分割する荒療治に成功した。'49(S24)朝日麦酒?の初代社長に就任。 '54ニッカウヰスキーを売却しウィスキー製造にも力を入れる。'63寿屋(現・サントリー)のビール進出に対して朝日麦酒の販売網を大乗的見地から開放し、ビール業界の秩序づくりに貢献した。
 一方、戦前からエルマン、ハイフェッツ、メニューヒンなど海外有名音楽家の来日に力を尽くし、柳宗悦、浜田庄司らの日本民藝運動を支援した。 さらに、新大阪ホテル、大阪ロイヤルホテルなど多くの有名ホテルの設立にも関わった。 関西財界でも叩き上げの経営者として活躍し、ヤマタメの通称で親しまれていたが、代表取締役会長兼社長のまま急逝した。享年72歳。 戒名は真誠院釋観道大居士。著書に『上方今と昔』がある。
 実業以外にも無類の芸術愛好家であり民芸、洋楽の普及に力を注ぎ、美術品のコレクターの収集家として、民芸派の作品のほか大津絵、泥絵、中国、李朝の古陶磁などを含む1200点におよぶ作品を集めた。これら蒐集品は大山崎山荘美術館にて紹介されている。

<現代日本人名辞典など>


墓所

*墓石は五輪塔。五輪塔には何も刻まれていない。左側に墓誌碑が3基建つ。墓石側から「山本家先祖代々之霊位」と刻む墓誌碑、三名の戒名が刻む墓誌碑、山本家墓碑銘と刻み為三郎以降が刻む墓誌が建つ。山本為三郎の戒名は真誠院釋観道大居士。妻の幸、長女の婿養子の考、長女の春子、孫の為久が刻む。

*妻は幸(1894.3-)は大阪出身で平井孫三郎の6女。山本為三郎と幸の間に4女儲けている。山本家は5代目前から一人っ子が続いていたが、為三郎はその家系の因縁を破っている。長女は春子(1912.4-2003.12.4・享年91歳)、次女は光子、三女は早死、四女は慶子。長女の春子と結婚した孝(H12.5.26歿・享年91歳)は婿養子となった。二人の子で孫に山本為久(R1.10.28歿・享年71歳)。為久の妻はイトーヨーカ堂やセブンイレブンジャパン社長の伊東雅俊の長女の尚子。



第266回 朝日麦酒・アサヒビールを発展させた人 山本為三郎 お墓ツアー


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