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きくち とうよう

菊地東陽

きくち とうよう

1883.2.4(明治16)〜 1939.4.5(昭和14)

大正・昭和期の実業家(写真)

埋葬場所: 19区 1種 8側

 山形県出身。本名は学治。東陽は号。曽祖父の菊地常右衛門は山形の名刹鈴立寺若松寺十四坊の一つ新蔵坊の坊主であったが、江戸に出て金融業を営み、傍ら行方敬篤に写真術を学んだ。 祖父の菊地新学は常右衛門から送られる手紙により写真術を学び、行方敬篤に師事、山形に菊地写真館を開設。父はその写真館を継いだ菊地宥清。三男として生まれる。12,3歳頃より東陽を自称。
 1898(M31)東京銀座の写真館を皮切りに日本各地で写真技術の修行をした後、18歳の時に山形で父業の写真館を継ぐ。1903再び上京し、写真材料商の湯本定兵衛と会い写交会に入る。 鹿島清兵衛(2-1-8-50)の写真館を写交会が経営することとなり実務を任された。'04渡米し、シアトル・カーボン写真館に入り、その後、ポートランドでセンチュリー写真館を開設、更にニューヨークに移り、ホワイト写真館、ロレッツ写真館、アベインで写真館を開設した。 '09よりホームポートレート撮影を始める。これは富豪の邸宅に出張して撮影をするもので、ネガが素抜けとなる背景部分には、伊藤龍吉が手描きで背景を創作した。 この手描き背景の肖像写真の評判が高く人気を博し、写真営業に新しい領域を拓いた。'10ニューヨークにキクチスタジオを開設。写真館経営の傍ら研究にも没頭し、'18(T7)写真感光乳剤の開発に成功。
 翌年、帰国して植村澄三郎(8-1-13)の協力により、オリエンタル写真工業を創立し、取締役技師長に就任。植村澄三郎の息子の植村泰二は写真乳剤の研究者として入っている。 '21国産初の人像用印画紙の製造に成功。この写真印画紙の製造を開始したが全く売れず、在庫山積という状況で困却の時に、'23関東大震災が発生し印画紙不足で在庫品が売れ窮地が打開された。製品としての印画紙には「オリエント」「ピーコック」「OK」がある。
 '29(S4)社長に就任。オリエンタル写真学校を創設するなど、写真のソフト技術向上に情熱を燃やした。日本における写真工業の創生期に、写真感光材料製造工業を確立し、撮影に関する高度のソフト技術を持つ写真乳剤技術者であった。享年56歳。 没後、'41菊地東陽先生傳記編纂會が刊行した『菊地東陽伝』(オリエンタル写真工業の祖)がある。

<新潮人名辞典>
<平凡社日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<写真師および乳剤技術者としての「菊地東陽」考>


墓石に「菊地東陽之碑」。右側に墓誌がある。戒名は天眞院國玄至寶居士。


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