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かじま せいべえ

鹿嶋清兵衛

かじま せいべえ

1866(慶応2)〜 1924.8.6(大正14)

明治・大正期の写真家、能笛家

埋葬場所: 2区 1種 8側 50番

 幼名は政之助。大阪「8代目天満 鹿嶋清右衛門の二男として生まれ、天満鹿嶋没落により、4歳のとき、七代目江戸鹿嶋清兵衛に引き取られ、後、成人して長女の乃婦と結婚し8代目となった。 これを契機として、天満鹿嶋一族の生活を見るため、多額の金が、江戸から天満に仕送りされることとなり、これが後に「俺は、仕送りのための人質か」と心を苦しめることとなった。これが鹿嶋を離れる大きな動機だ。 鹿嶋が清兵衛を追放したのではなく、自らその立場を放棄したのである。その清兵衛を助け、生涯、恵津(ゑつ)を含めて、13人の子供たちのために多額の仕送りをしたのは、乃婦なのである。清兵衛の生涯の生活を支えていたのは、離婚後もその死に至るまで、月額400円もの大金を送り続けていた8代目乃婦であった。


*多くの一般書物での紹介では、乃婦は家付きの娘、夫の心を理解しない、わがままな妻として今日まで語り遺がれてしまっているが、世間から罵声を一身に受けながら生涯を終わった苦労が蔑ろとなっている。


【写真機との出会い】
 明治20年初めの頃、突然最愛の長男政之助を5歳で失った。加えて、明治維新により、新しい社会制度の到来とともに、古い伝統に生きる「下り酒問屋」にとっても、大変な事態に見舞われていた。
 そのような大変な重荷に精神的に疲れていた清兵衛の心を休めようと、色々な事を回りの者が勧めた中の一つに、写真があった。当時、ようやく流行し始めていた写真機である。
 その写真機との出会いは、先代の七代目が、何かの際に手に入れ、蔵の奥に放り込んで埃まみれていたものを見付けたものであった。当時の写真機を手に出来たのは、一部の政財界のブルジョア階級であり、今日のように一般庶民が扱えるものではなかった。
 写真を通して要人と近づけることで、鹿嶋屋の活きる道とともに「御一新」によって失われた新川一帯に店を構える下り酒問屋の権益を復活させようと思った。この写真機との出会いが、清兵衛の後半生を波乱に満ちたものに変えようとは、本人自身夢想だにしなかったであろう。
 明治22年秋、創立された「日本写真会」に早速入会した。日も経過していないのにその年の年末には、《副会長兼会計担当》、その上、地方支部担当までに選出されている。
 特に写真についての理論面・技術面に関して、事細かに指導をしたのは、英国人バルトン博士である。バルトン博士は明治政府の要請によって来日した技術者であり、東京の下水道開発を手掛け、また関東大震災で倒壊したが浅草の名物であった「凌雲閣」、俗に「十二階」と呼ばれた建物を設計するなど近代建築の技術の啓蒙に当たった人物だ。
 そのバルトン博士が清兵衛の情熱に応え、写真についての知識・技術など総てを指導、伝授した。この技術指導を受けたことが、後に〈写真大盡〉と呼ばれ名を後世に残すこととなる。
 写真に使うお金も、この頃までは、家の財力から見ればわずかなものに過ぎなかった。そんなことから暇を見付けては、写真機を担いで各地に出掛けては、多くの見物人を前に得意そうにシャッターを押した。
 清兵衛の写真の特徴は、当時の技術では不可能と言われた大型の写真の作成であった。今日まで語り遺されている代表的なものは次のようなものである。
(1) 『9代目団十郎の《暫》の舞台写真』わが国最初の舞台写真である。この時の写真は平成15年1月15日発売の歌舞伎400年の記念切手の題材として復活している。早稲田大学演劇博物館に保管。
(2) 『明治天皇・昭憲皇大后 銀婚式のお祝いとして』(明治27年秋)超大型の富士山の写真を献上し明治天皇から特別のお言葉を戴いたと言われる。この写真は関東大震災で消失したと言われていたが、昭和38年8月6日清兵衛の命日に偶然、宮内庁に保管されていることを鹿嶋實様ご本人が発見した。
(3) 『英照皇太后のご葬儀』(明治30年3月)わが国最初の夜間野外での葬列の写真。国立国会図書館に保管。この写真を命じたのは、当時の大本営陸軍部であり、日清戦争の際、清国には照明弾があったのに、日本にはなく、作戦遂行上苦労したことで、この反省の元に日露戦争の準備をしていた当時の陸軍としては、このご葬儀に事寄せて、この実験をさせたものだ(鹿嶋實様の推論)。裏付けとしては、夜間撮影について国内での発表をしていない点、日露戦争では日本は照明弾を使用している点があげられる。
(4) 『両国川開きの際のわが国最初のコマーシャル入りの仕掛け花火』を演出。(明治28年7月)
(5) 『百物語の再現』花火終了後、同夜、向島で開催した百物語を再現した。この時の詳細は森鴎外の「百物語」に記されている。 巨大な照明装置の技術を買われて、明治32年本郷春木座で上演された高野聖のバックに仕掛けた花火装置の暴発から、右の指を失い、以降、写真撮影が不可能となり、自失状態の清兵衛を助けたのが、能楽の笛であった。 三木如月の名の下に、奇跡的に笛の名手として復活。しかし、凝り性から出演する舞台の老女のか弱い情景を演出するため、自ら食事を断ち、体力の減少を図って、演出、舞台は成功したが、これが命取りとなってしまった。 清兵衛が手掛けた写真については、その後、現在の「コニカ」に引き継がれ、今日の日本の世界に誇る写真の発展の基礎となった。しかし、当時、清兵衛のそばに出入りしていた落語家が、「鹿嶋大塵噂話」と題して、高座で上演したため、清兵衛が目指した写真についての功績が消え、単なる金持ち旦那の《お遊び》として、現在まで誤った紹介をされてしまっている。併せて、生涯、清兵衛の生活を支えた乃婦の陰の力が伝えられることはなかった。


鹿嶋乃婦(かじま のふ)
1867(慶応3)〜 1919.2.9(大正8)
証願寺(東京都葛飾区)
鹿嶋清兵衛の前妻
 7代目鹿嶋清兵衛の長女として誕生。日本全国が世情不安に揺れていた時代であり、生来病弱であったゆえ、7代目夫妻は過大な負担から若くして他界。この為、乃婦は13歳の少女の身で、伝統の家業である「下り酒問屋」を継承した。
 この少女を母親以上に慈しみ育てたのは、祖母6代目トキであった。トキは武家の生まれで、5代目に臨まれて6代目に嫁いだ。そのため、乃婦に厳しい作法を教えた。一例として、極寒の特別の朝を除いて、生涯、座布団・足袋を着用することなく、年中、素足で過ごしたなどが言い伝えられている。生前、母が良く口にしていた「もし、お祖母さまが、生きていたら、お前なぞ、とても勤まらないよ」と。長女「とき」の名前も、この6代目の名前にも由来している。また2女「そで」の名前は、母7代目の名前に由来している。その生前、乃婦の遺した教えの一つに「自分はいつ死んでも命日は3月7日とせよ」。理由は3月は6代目「トキ」の他界した月、7日は7代目「そで」の他界した日であり、3月7日にすれば自分を含めて3代の先祖を供養することになる。乃婦とはこのような考えの持ち主であった。本来の乃婦の命日は2月9日である。当時流行して多くの死者を出したスペイン風邪によるものである。

*私が鹿嶋實様と手紙のやり取りをして、その内容も大詰めに迎え、このHPに記載する内容と乃婦の生涯も掲載した旨を伝えた手紙が鹿嶋實様の手元に届いた日が2月9日であった。この運命じみたやり取りに大いに喜んでくださったのが、長年鹿嶋清兵衛を研究され、いまだ世に伝えきれていなかった鹿嶋實様であった。私がこのHPに記載することで、この文章を目にしてくださる方々は少ないであろうが、その一矢になればと思う。


【乃婦の業績と事実の逸話】
・今日では、日常目にする《びん詰》の酒の導入についても、10万までの損失なら取り入れなさい。と若い従業員に指示をした。
・ある夜、泥酔した大番頭が誤って乃婦の座敷に入り込み、「お前は誰だ」として乃婦の顔を撫で回した。翌日、この失敗を聞いた大番頭は、恐縮して詫びを入れたのに対して、「私は何も知らないよ。誰か他の人ではないの」と、大番頭をかばった。これにより、一層、店の者は信頼感を深めたという。
・若い者が今でいう「野球拳」を、それも女中さんまで加わり盛り上がったらしい。見つかれば大目玉ものだ。いつしか声が大きくなり、奥の乃婦の耳にも入った。現場に現れた乃婦に気付いた店の者は、大目玉を覚悟したところ、乃婦は笑いながら「私も仲間に入れておくれよ。今日は私が賞品を出しましょうよ」と言った。このように場の空気を読み取り、従業員の掌握術に長けていたという。
 乃婦は決して、現在人名事典などに書かれているような、わがままな家付き娘として育ってはいない。粋も甘いも噛み分ける太っ腹な大女将であり、粋を売り物とした新川の街で育った《新川の女》であった。また、別れた鹿嶋清兵衛と後妻の子供たちにも月々仕送りをしていたのだ。


【多磨霊園の墓石】
 清兵衛逝去の際、江戸・大阪ともに、その埋葬を拒否したため、弟の清三郎が、「亡兄を追憶して」と題する小冊子を配布、募金をして、建立されたとのことである。昭和28年に長谷川伸の「明治の女」が発刊され清兵衛が再びクローズアップされたが、この小説の原点の一つに、この小冊子が大きく作用したと言われる。この小冊子の原本をお持ちの方がいらっしゃれば、一報いただければ幸いに思います。


【ご子孫】
 8代目鹿嶋清兵衛・乃婦には4人の子供(政之助・とき《9代目夫人》・そで・さゐ)がおり、三女さゐと養子武二郎との4人の子供の次男が、この手記を紹介してくださった鹿嶋實様です。鹿嶋實様は元日本地震雲研究会名誉会長で、現在は新日本地震雲研究会会長を務めている。清兵衛の後妻となった恵津(ゑつ)とには13人の子供がいる。

<鹿嶋清兵衛の孫にあたる鹿嶋實様より情報提供>


*現在、お墓は現存しますが、遺骨は2008年11月に改葬されました。清兵衛、ゑつは財団法人青葉園に、清三郎、ますは愛知県犬山市の瑞泉寺霊園に改葬されました。

<清三郎のひ孫様より情報提供>


< 一般的な紹介文 >

 大阪天満(てんま)の酒問屋鹿島屋に生まれたが、四歳の時、東京京橋の新川にあった同族の酒問屋鹿島屋の養子に入った。 鹿島屋は江戸時代以来の有数の下り酒問屋として知られ、莫大な土地と財産を所有していた。
 清兵衛は家業に馴染めず、笛に凝り、1897(M30)には梅若万三郎のもとで能の笛方をつとめるほどになった。 また写真は本格的で、浅草松林堂の写真師今津政二郎を自宅に招いて写真の手ほどきを受け、 ついで建築家で写真家でもあった工科大学教師バートンについて写真術を修得した。
 養家先の鹿島家の資力にものをいわせて外国から最新の写真器材を取り寄せ、プロ顔負けの腕前を発揮した。 家業は番頭や家付娘の妻に任せ、ついに95木挽町五丁目三番地(銀座六丁目)において館主に実の弟の鹿島清三郎を据え、 宏壮な写真館玄鹿館(げんろくかん)を開業。 スタジオは百五十坪もあり、そこには大道具、小道具を配した回り舞台を備え、客の注文に応じて背景をかえることが可能。 夜でも撮影できるように二千五百燭光の電灯も備えた。 この時代はまだ小さなネガから大きく引き伸ばす技術がなかったので、 開業の年の十一月にイギリスから全紙四倍の暗室カメラを取り寄せ、 歌舞伎座で上演中の九代目市川団十郎演ずる「暫(しばらく)」の等身大の舞台姿を撮影し、世間をあっといわせた。 また、93写真術・写真業の発展を図るために小倉倹司・有藤金太郎と相談して、写真品評会を設立し、そのために私財を投じた。 その散財振りから、いつしか清兵衛は「写真大尽」といわれるようになった。
 96キリンビールが「美人写真」をテーマに懸賞写真に応募し、そのモデルに使ったのが、 弟清三郎から紹介された新橋花街で売り出し中の芸妓ぽんた(本名惠津)。 早速年若いぽんたをモデルに写真の撮影に入り、二人はこの仕事を通していつしか深い仲となり、当然の結果、 やがて二人の仲は鹿島家の知るところとなる。ぽんたとの縁を切るか、家業に専念するかの瀬戸際に立たされた清兵衛は、 迷わず惠津をえらび、その結果として鹿島家からの生活の資は断たれた。 やがて玄鹿館はゆきずまり、一家は東京を離れて関西に行き、写真で生計を立てようとした。 しかしそこでもうまい具合にいかず、東京へ舞い戻り、本郷の本郷座の前に春木館という写真館を開店。
 1905のころ、日露戦争の戦勝気分が盛んな時期に本郷座で戦争をテーマにした芝居を上演することになり、 戦場の場面の舞台効果を任された。迫真の舞台を作ろうと苦労していたときに、火薬の調合を間違え親指を吹き飛ばしてしまう。 娘のくには演劇界の大御所坪内逍遙のもとに養女に出され、逍遙の訓育を受けて踊りの名手となる。 清兵衛もいつしか習い覚えた能の笛で生計を立てるようになった。 1924(T13)関東大震災後の吹きさらしの能舞台に体の不調を押して出演したのがもとで、その波乱に満ちた生涯を閉じた。

*2003年に鹿嶋清兵衛と乃婦の直系のご子孫にあたる鹿嶋實様ご本人から私に直々にお電話をいただき、鹿嶋清兵衛に関する実情を教えていただいた。2004年に誤った紹介が一般的となってしまっている現実に、少しでも事実を紹介したいと私の方から願い、手記を送ってもらった。数度手紙のやり取りをかわし、承諾のもと、一般的な紹介文と並列して鹿嶋實様の手記を載せることとした。


【鹿島清兵衛の埋蔵金】
 1963(S38)8月24日東京都中央区新川の日清製油本社ビル改築工事中に、工事を請け負っていた大成建設作業員が、地下150cm程度の深さから出てきた煉瓦敷きの下から、天保二朱金22464枚が詰まった直径13センチ、高さ25センチのガラス瓶3本が発見された。 さらに、9月3日、大成建設の下請けの樋口組作業員が、天保二朱金が詰まった瓶を5本55925枚、丁寧に100枚ずつ束となった天保小判1900枚を発見した。天保二朱金は78389枚の発見だった。 時価6000万円とも言われ、現在の価格価値に変換すると10億円近い額の発見であり、当時日本最大の埋蔵金発見と新聞で大きく報道された。
 この地は江戸時代中期から太平洋戦争終戦まで酒問屋を営んでいた豪商鹿島屋が存在し、代々の当主により蓄財された財宝であることが判明された。 一説によると9代目鹿島清兵衛の妻が、明治期に浪費癖が強かった清兵衛に秘密として埋め隠した財産であるとされる。 見つかった埋蔵金は子孫に引き渡され、発見者には埋蔵金の一部を報労金として現物支給されたとされる。

◆もし埋蔵金を発見したら

 もし埋蔵金を発見したら、速やかに警察に届けを出さねば罰せられます。これは、民法の遺失物法で定められており、道端で財布を拾った時と同じことです。 警察が公告を行い、埋蔵金の場合は六ヶ月間(財布などなどの取得物の場合は三ヶ月間)保管され、この間に所有者が現れなければ、発見者の物となると思ったら大間違い。 埋蔵金の場合は、発見した土地の地主と折半となります。自身の所有地での発見であれば全てが自分のものとなります。 日本国内には所有者がいない土地は存在しないため、採掘する時は、土地所有者の許可が必要となり、勝手に採掘し埋蔵金を発見してしまった場合は、逆に罪に問われることでしょう。 ただし、例え勝手に採掘し発見しても、遺失法の権利は存在しますが、リスクが高いです。
 鹿島清兵衛の埋蔵金のように、所有者が現れ確定した場合は、財布を拾った時と同様に、報労金として、発見した埋蔵金の最大20%から最小5%の請求することが可能となります。 これは発見者が所有者に対して請求をしなければ無効となります。基本は10%の報労金が妥当な額です。加えてですが、所有者が確定した場合は、地主には一銭も入りません。
 なお、埋蔵金の所有者が発見されないケースの方がほとんどであるのが実情ですが、たいがいの場合は、歴史的な価値ある発見が多いため、文化財保護法の法律に引っかかり、発見者が所持できない仕組みになっています。 そのため、世界で活躍するトレジャーハンターが日本のお宝に目を向けない、お宝を発見しても警察に届け出ずに猫ばばをするというのが、現在の専門家の見方です。

<「日本の埋蔵金研究所」埋蔵金関連法律概要 引用参考>


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