佐々木六角氏の歴史

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十 戦国時代 〜戦国大名への道

 二度にわたる六角征伐を耐えぬいた六角高頼は、領国支配を強め戦国大名への一歩を踏み出そうとしていた。しかしここに一つ大きな障害があった。それは家臣の伊庭貞隆である。応仁の乱以降、六角家では当主高頼のもと山内・伊庭両氏が家臣団を統率して難局を乗り越えてきたが、第二次六角征伐で山内政綱が討たれてからは伊庭に権力が集中することになった。その結果、伊庭貞隆は高頼に匹敵する権勢を有した危険な存在となったのである。

 そして文亀二年(1502)十月、第一次伊庭の乱が勃発する。「伊庭連々不義の子細共候間」として高頼が貞隆の排除を決行したのである。戦闘に敗れ湖西に脱出した貞隆であったが、幕府との強いつながりを持つ貞隆は管領細川政元の後援を得て反撃に転じ形勢は逆転する。青地城・馬淵城・永原城と次々に落とされた高頼は、観音寺城を捨てて蒲生貞秀の音羽城に落ち延びることになるのである。

 さらに翌文亀三年には細川政元の被官赤沢朝経が派遣され、高頼軍は窮地に陥る。かろうじてこれを耐え抜いた高頼は政元の斡旋により講和を成立させた。こうして戦争は終結した。しかし高頼にとっては、貞隆を除くことの困難さを痛感させられただけの得るもののない戦争であった。

 この後、中央では政局が大きく混乱する。きっかけは管領細川政元が永正四年(1507)に暗殺されたことである。これにより政元の後継者争いが起こり、その混乱をついて永正五年(1508)には以前政元に追放された前将軍足利義材が大内氏の援護を受けて上洛、将軍職に返り咲いた。逆に庇護者を失った足利義澄は近江に落ち延びることになる。この義澄を保護したのが伊庭貞隆であった。

 しばらく戦乱から遠ざかっていた近江であったが、この政変により高頼・貞隆の対立が再燃する。というのも高頼は義材派であったからである。永正八年(1511)に岡山城で義澄が死没すると、翌月には貞隆の家臣岡山城主九里備前守が高頼に討たれた。そしてついに永正十一年(1514)二月、第二次伊庭の乱が始まる。

 伊庭貞隆・貞説父子は湖北に出奔し、当時京極氏に勝る勢力となっていた浅井氏の支援を受けた。これにより戦乱は長期化し六年にも及んだ。しかし貞隆には第一次のように細川氏の援護がなく、ついに永正十七年(1520)八月、岡山城が陥落し内乱は終結する。

 これでようやく六角氏の戦国大名化への障害が取り除かれたわけではあるが、二ヵ月後には高頼が死去。嫡男氏綱は永正十五年(1518)に既に亡くなっており、次男定頼が家督を継いだ。ここに六角氏は新しい時代を迎える。

足利将軍家


戦国期の六角氏
 定頼が当主となった当時、京都では政局が混乱を極めており、また近江北郡では力をつけた浅井亮政が南郡に手を伸ばそうとしていた。定頼は近江守護として両方の問題に積極的に取り組んでいった。京都では足利義稙(義材)のあと足利義晴が擁立されていたが、やがて義晴は三好長慶と対立して近江に逃げ込んだ。定頼は細川晴元と手を結び、義晴を助けて三好勢と戦いをくり返した。そして義晴が病没してからはその子義輝を援護して中央政権に大きな影響を与え続けたのである。

 また浅井氏に対しては、攻勢に出てその動きを封じ込めた。大永五年(1525)には小谷城を包囲して亮政を美濃に追い落とし、享禄四年(1531)、天文七年(1538)にも湖北にて浅井軍を破っている。定頼は三好氏・浅井氏と両面に敵を抱えながら巧みにこれらを打ち破り、また中央政権にも参画して六角定頼の名を天下に轟かせた。しかし結果的には、京都に平安をもたらすには至らず、浅井氏に対してもこれを駆逐もしくは屈服させることはできなかった。そして天文二十一年(1552)一月、野望を達成できぬまま定頼は死没する。享年五十八歳であった。

 定頼の跡を継いだのは嫡男義賢である。義賢は定頼が死去するとすぐに方針を転換した。三好氏と和議を結んだのである。これによって六角氏は宿敵浅井氏に専念することができるようになった。そして天文二十二年(1553)ついに浅井氏を屈服させる。当時浅井氏の当主は亮政から久政に代わっていたが、義賢の攻撃に耐えられなかった久政は息子長政に六角家の重臣平井加賀守の娘を迎えるという条件で和議を結び降伏したのである。

 また六角・三好の和議が成立したことにより、長らく近江の地にあった将軍足利義輝も京都に戻ることができた。これは一時的なものではあったが、義賢は家督を継いでから短期間で父定頼の遺志を果たし、大いに面目を施したのである。

 しかしながら世は戦国時代に突入しており、近江にも動乱の波が押し寄せてきていた。永禄年間に入り、江北浅井家では浅井長政が父久政を隠居させて家督を継ぎ六角家からの独立を表明する。これに対し義賢はすぐに攻撃を仕掛けるが、戦果をあげることができないばかりか息子義弼が独断で美濃の斎藤氏と同盟を結んだことにより、これまで親密な関係にあった土岐・朝倉をも敵にまわすことになってしまった。さらに京都でも、かつての盟友である足利義輝・三好長慶と敵対することになり、六角家の外交状況はまさに混乱状態であった。

 このような状況の中、六角家の権威を失墜させる事件が起こる。世に言う観音寺騒動である。永禄六年(1563)十月一日、六角義弼が重臣後藤但馬守父子三人を謀殺したことで始まったこの事件は、永田・三上・池田・進藤・平井といった重臣たちの離反を招き、事態を恐れた承禎(義賢)・義弼父子が観音寺城を捨て三雲・蒲生を頼り落ち延びるという結果になった。

 そもそも近江における六角氏の権力は絶対的なものではなく、その支配基盤は被官人の連合に支えられてこそのものであった。義弼は混乱する対外関係を乗り切るため国内の結束を固めることが必要と感じ、当主を上回るほどの権勢を有する後藤氏を排除しようとしたのであろう。しかしこれは家臣たちには暴挙以外の何物でもなく、最悪の結果を招くことになってしまったのである。騒動は蒲生定秀らの調停によって終結するが、六角氏はその領国支配を根底から揺るがされることになった。

 その後、浅井氏との戦争でも敗北を喫した六角家では領国の危機を乗り切るために、永禄十年(1567)に有名な「六角氏式目」が制定される。この式目は同時代の分国法のなかでも特異なものであり、承禎・義弼父子と二十名の家臣との間で交わされた式目の遵守を誓う起請文が載せられている。ここに六角家当主は家臣により権力を制約され、もはや家臣団の権益を守る代表者にすぎない存在にまで落ちるのである。

 しかしながらこうした六角家の結束もあっけなく崩れてしまう。永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じた織田信長が上洛を目指して進軍を始めた。信長は承禎・義弼父子に対して協力を要請するが、宿敵浅井氏の同盟者である信長に協力できるわけもなく対決することになる。父子は観音寺城を中心として各地の支城に軍兵を配し、信長を迎え討とうとした。これに対し信長は一気に父子の籠もる観音寺城・箕作城に攻めこんだ。頼みの綱である支城の家臣たちは動かず、わずか一日で両城は落城。承禎・義弼父子は甲賀へと脱出し、あっけなく戦いは終わった。

 抵抗らしい抵抗もせず観音寺城を捨て甲賀に潜む戦法は六角征伐の際に高頼が見せたものであり、承禎・義弼父子もそれに倣ったと見ることもできる。しかしながら状況は高頼の頃とはまったく異なっていた。観音寺城落城と同時に家臣たちの多くが信長に降伏したのである。このため父子がこの後も執拗に信長に抵抗し軍事行動を起こすも六角家再興には至らず、ついに元亀三年(1572)の鯰江城落城をもって近江守護六角氏の姿は近江から消えるのである。


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