三 源平争乱 〜佐々木兄弟の活躍〜
近江を追われた佐々木秀義父子は奥州の藤原秀衡に身を寄せるため東国へと落ち延びていった。これは秀義の伯母が秀衡の妻であったためである。
しかし相模まで来たところで、秀義の武勇に感じ入った渋谷荘(神奈川県高座郡綾瀬町)の渋谷重国に引き止められ、その庇護のもと二十年もの間不遇の日々を過ごすことになる。しかしながらこの相模への下向が佐々木氏隆盛のきっかけとなるのである。 |
佐々木秀義と息子たち |
当時、源義朝の子頼朝は平家により伊豆蛭ヶ小島に流されていた。源氏に対する佐々木氏の忠誠は変わらず、二十年の間に成長した秀義の子息たちは頼朝のもとを訪れ、その結びつきを深めていった。
そして治承四年(1180)八月、頼朝が伊豆で挙兵し源平合戦が始まると、佐々木四兄弟は頼朝のもとに馳せ参じめざましい活躍をする。頼朝の最初の合戦で伊豆の目代山木兼隆の首をあげたのは三郎盛綱であり、寿永三年(1184)の宇治川合戦で四郎高綱が頼朝から賜った名馬生食(いけずき)に乗って梶原景季と先陣争いを演じたことはつとに有名である。
そうした争乱の最中、佐々木氏は恩賞を得て念願の近江の旧領地に帰還する。秀義をはじめとする佐々木一族は内乱期の混乱に乗じて近隣の荘園を横領するなど積極的に領地の拡張をはかり、その地盤を固めていった。 |
ところが一ノ谷の合戦直後の元暦元年(1184)七月、伊賀の平田家継、伊勢の平信兼らが挙兵して近江に侵攻するという事件が起こる。この平氏残党を迎え撃つことになったのが秀義であった。当時、息子たちは平氏を追って西国に出陣中であり、秀義は五郎義清を従え国中の兵を率いて出陣する。秀義は老齢の身でありながら奮戦し、なんとか平家軍を鎮圧することに成功した。しかし激戦の中、秀義自身は流れ矢に当たり帰らぬ人となってしまう。
ともあれ源平合戦が源家の勝利に終わると、保元・平治の乱より一貫して源氏に忠誠を尽くしてきた佐々木家への行賞は大きなものであった。
長男定綱は本領佐々木荘の他にも多数の所領を与えられた上に、近江・長門・石見・隠岐の守護に任命され、他の兄弟もそれぞれ数ヶ国の守護となる。その繁栄ぶりは『吾妻鏡』に「兄弟五人の間、十七箇国守護職を補せしむ」といわれるほどであった。
一方、源為義の没落後は平氏に仕えていた本佐々木氏であったが、平氏が都落ちしてからは頼朝に従うようになっていた。内乱が終わり、本佐々木成綱は定綱の指揮下に入るよう頼朝に命じられる。その後の本佐々木氏は沙沙貴神社の神官や佐々木六角氏の被官として続いていくことになる。 |
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