佐々木六角氏の歴史

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五 一族分立 〜六角氏と庶子家〜

 承久の乱後、佐々木惣領家と近江守護職を継いだ佐々木信綱は朝廷に接近して寛喜三年(1231)近江守に任じられ、また文暦元年(1234)には幕府の評定衆にも選ばれて有力御家人としての地位を固めていった。

 信綱には四人の息子がおり、仁治三年(1242)に信綱が死没するとその所領は四人に分割され、それぞれが新しく家を興すことになる。
 長男の重綱は坂田郡大原荘(山東町)の地頭職を得て大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷(安曇川町)・朽木荘(朽木村)の地頭となって高島氏を名乗った。そして三男泰綱が宗家を継いで近江南六郡(神崎、蒲生、野洲、栗太、甲賀、滋賀)を与えられて六角氏を名乗り、四男氏信は近江北六郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智)を与えられて京極氏を名乗ることになる。
 ちなみに六角・京極の名乗りは、泰綱、氏信へ父信綱から譲られた京都における屋敷がそれぞれ六角東洞院、高辻京極にあったことに由来する。

 ところで長男重綱に対する信綱の信頼は決して低いものではなかった。しかし近江守護佐々木家の家督相続は三男泰綱とされ、その所領は泰綱と四男氏信によりほぼ二分されることとなった。
 この背景には、泰綱・氏信の母が執権北条泰時の妹であったことと、近江国に強大な勢力を持つ佐々木氏を牽制しようという幕府の狙いがあった。

近江国12郡


宗家と庶子家
 さらに幕府は新たにできた三庶子家をすべて在京人として組織する。信綱の兄弟が興した庶子家には、馬渕、鏡、佐保、伊佐、山中などがあり、これらは宗家のもとで守護代や被官となって宗家を支えるが、信綱の子が興した大原、高島、京極氏は在京人として幕府と直接関係を結び、六角氏の領国支配に対して大きな障害となるのである。


 中でも四男氏信に始まる京極氏は、在京御家人として他の庶子家よりも強く幕府と結びついた。文永二年(1265)には引付衆に任命され、翌三年(1266)には評定衆に昇進する。
 執権北条氏に追従した京極氏は、六角氏の勢力拡大を同族間の勢力均衡により阻止しようとする幕府の意図とあいまって、宗家を超える地位を幕府内に占めるようになるのである。


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