八 応仁の乱 〜混乱を乗り越えて〜
文安年間の内紛を鎮圧した六角久頼には、近江支配に向けていくつもの課題が残された。まずは守護代伊庭満隆の台頭である。内紛で乱れた領国支配体制を建て直すためには分裂した被官人をまとめあげる必要があり、被官人の代表たる伊庭氏の協力が不可欠であった。このため以前は書下によって在地に直接下されていた守護の命令が、伊庭満隆を通さなければ効力を持たないという命令形態を生むのである。
さらに大きな問題として、幕府が京極家に対して守護六角家と同様に施行権を与えたことが挙げられる。内紛鎮圧に功があったとはいえ、京極家はあくまで庶子家である。その干渉を受けつつ領国支配を進めることは久頼には我慢ならないことであっただろう。両家の対立は日に日に深まり、ついに康正二年(1456)久頼は自害する。「両家確執」が原因であった。自らの死によってしか抗議できなかった久頼の苦悩はいかほどであったろう。 |
応仁期の六角氏 |
これにより京極氏との対立は鎮静化したが、六角家はまたもや危機に直面することになった。久頼の跡は嫡子亀寿丸が継ぐことになったが、当時まだ幼年であり被官人が盛り立てていかねばならなかったのである。この事態は、観応の擾乱によって突如六角氏頼が出家し、このためわずか二歳の千寿丸が家督を継ぐことになった百年前の出来事を彷彿とさせた。このときは一族の山内定詮が千寿丸の後見人として危機を乗り切ったのであるが、その例に倣ったものか亀寿丸の後見人には定詮の子孫である山内政綱が任命された。
ところが二年後の長禄二年(1458)、亀寿丸は突然近江守護職を解任され、六角家の当主には従兄弟の政尭が就いた。政尭は文安の内紛で自害した時綱の子である。この突然の解任劇は、幼少の亀寿丸では被官人を抑えることができず国内を安定させられないという幕府の意図が働いたようである。しかし幕府の期待を背負った政尭は、わずか二年後の長禄四年(1460)、守護代伊庭満隆の子を殺害するという事件を起こしてしまう。近江国内で実権を握る伊庭氏の力を削ごうとしたのであろうが、これが将軍足利義政の勘気を蒙り、政尭は京都大原にて剃髪し出奔する。これにより亀寿丸が再び六角家の家督を継ぐことになるのである。 |
ところで近江で混乱が続くなか、室町幕府内でも政権の混乱がひどくなっていた。もともと室町幕府は守護大名の連合政権の色合いが強く、三管領を代表とする有力守護が支えていたのであるが、足利義教の死後は細川・畠山・山名等が権力争いを繰りひろげていた。彼らは自分の派閥を大きくするために将軍家や他の守護大名の相続問題にも干渉した。六角氏における家督相続の内紛にも、幕府内での権力を争う彼らの意思が働いていたのである。
やがて中央では細川勝元と山名持豊(宗全)が勢力を強め対立するようになっていた。そんな中、管領家の斯波・畠山両氏に相続争いが起こり、将軍義政の後継者争いも重なって京都は一触即発の危険な状態になった。そしてついに応仁元年(1467)一月十八日、畠山政長と義就の間で合戦の火蓋が切って落とされた。こうして始まった応仁の乱は諸国に広がり、やがて全国を東軍(細川方)・西軍(山名方)に二分する戦争に発展していく。 |
近江では京極家が東軍についたため、六角家は西軍に味方する。六角家では当主亀寿丸が幼少であるため山内政綱と伊庭貞隆が軍勢を二手に分けて指揮することになる。山内政綱は京都で、伊庭貞隆は近江でそれぞれ合戦に及ぶが、応仁二年(1468)十一月には京極氏・六角政尭連合軍によって本拠観音寺城が落とされてしまう。そして東軍に支持された将軍義政によって亀寿丸の近江守護職が解かれ、政尭が再度守護職に任命されるのである。
さらに翌年文明元年(1469)には六角政尭に替わって京極持清が近江守護職に任命される。庶子家京極氏の近江守護補任は佐々木導誉の例があるのみで、これに衝撃を受けた亀寿丸・山内政綱は以後近江に兵を戻し領国奪回のため死闘をくりひろげる。
近江に戻った六角亀寿丸はいったんは観音寺城を取り戻すが、京極持清やその守護代多賀高忠との合戦では分が悪く押され気味であった。ところが運命のいたずらか、その翌年に名将京極持清が突如として病没する。すでに応仁二年(1468)に持清の子勝秀を失っていた京極家では相続争いが勃発し、家中を二分する争いに発展する。この結果、六角家は力を盛り返し、ついに近江を制圧するのである。 |
応仁期の京極氏 |
これに対し東軍方の幕府は、文明三年(1471)近江守護職に再度六角政尭を任命し、近江に攻め込ませる。しかし元服し行高と名乗った亀寿丸のもと六角氏の守りは固く、一月ほどで政尭は自害して果てる。政尭のあっけない敗死は幕府にとって痛恨であったが、翌文明四年(1472)には再度近江侵攻軍を派遣する。今回は京極政高の家臣多賀高忠に指揮をとらせた。高忠はまず江北に攻め込みこれを制圧、そのまま南下を試みたが美濃の西軍斉藤妙椿に阻まれ敗走。こうして東軍幕府による近江侵攻は再度失敗に終わった。
六角氏の領国支配は思いのほか強力であった。このため幕府は六角氏との和平の道を模索する。しかし交渉は決裂、幕府は再度近江侵攻を決意する。近江守護職は政尭の死後六角虎夜叉に移っていたが、これを京極政高に与え行高追討を命じた。そして文明七年(1475)、領国出雲から遠征してきた政高の軍勢は延暦寺の衆徒も加えて近江に侵攻、六角氏と雌雄を決すべく正面からぶつかった。観音寺城下にて行われた合戦で六角行高は陣頭に立ち奮戦するが、結果は「捕虜数百人、京へ送られた首級百」という大敗北に終わり、観音寺城に立て籠もることになった。ここに行高の命運もついに尽きたかと思われた。しかし過去幾度の危機を乗り越えてきた行高の強運はここでも発揮される。
翌月になると西軍の土岐成頼・斯波義廉の援軍が近江に到着。これを機に西軍は反撃を開始、東軍は総崩れとなって幕府軍は近江より駆逐される。こうして六角行高の近江支配権が確立されるのである。
文明九年(1477)になると、ようやく応仁の乱も終結する。この戦乱を乗り切って近江における覇権を確固たるものにした六角行高に対し、幕府は文明十年(1478)近江守護職を与える。行高にとっては応仁二年(1468)以来三度目の守護職就任であり、京極氏・幕府より実力で取り戻した近江守護であった。対照的に京極氏は以後も内紛を繰り返し、六角氏に対抗する力を失っていくのである。 |
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