二 保元・平治の乱 〜佐々木源三秀義〜
佐々木経方の孫秀義は、佐々木荘での本佐々木氏との争いの中、清和源氏の棟梁であった源為義の猶子となりその家人となるが、しばらくして為義の嫡男義朝を主君と仰ぎ仕えるようになる。
そして、家人であった佐々木氏を息子に奪われた源為義は、そのかわりを本佐々木氏に求め、彼らを組織していく。 |
保元の乱 相関図 |
保元元年(1156)になると、鳥羽上皇の崩御を機に朝廷内で権力争いが起こる。世にいう保元の乱である。皇室では崇徳上皇と後白河天皇が、また摂関家では藤原頼長と忠通が対立していた。それぞれの陣営は源氏・平氏の武士を従え、激突する。源為義・義朝父子が戦ったこの合戦は、一面では佐々木秀義と本佐々木氏の佐々木荘争奪戦でもあった。
合戦は後白河天皇側の大勝利に終わり、藤原頼長は戦死、源為義・平忠正は処刑され崇徳上皇も讃岐へ流されるという結果になった。これにより義朝方の佐々木氏が佐々木荘での優位を得、庇護者を失った本佐々木氏は平清盛に仕えることになる。 |
しかし三年後の平治元年(1159)になると、保元の乱鎮圧の恩賞に不満を抱く源義朝と藤原信西に反感を持つ公家がクーデターを起こす。平清盛が一族を引き連れて熊野詣に向かった隙に挙兵した義朝らは、天皇・上皇を幽閉して内裏を占拠。藤原信西も殺害しクーデターは成功に終わる。
しかし参詣の途中でこの報に接した平清盛は急遽都に引き返し、密かに天皇・上皇を脱出させ取り戻すことに成功する。これにて状況は一転し、源義朝らは朝敵として追討される立場に立たされることになる。
源氏と平氏の合戦は一進一退を繰り返し、佐々木源三秀義も義朝の嫡男悪源太義平に従い奮戦するが、内通者が出たことにより源氏は総崩れとなって東国に落ち延びることになる。こうして平治の乱は平氏の大勝利に終わる。 |
平治の乱 相関図 |
これにより、佐々木秀義の優位は三年で終わり、その身は近江を追われ子息を連れて東国へ逃れることになる。そして本佐々木氏が平氏の所領となった佐々木荘の下司職を務めるのである。 |
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