六 南北朝の内乱 〜六角氏の苦悩〜
十三世紀後半になると、文永・弘安の役(元寇)に恩賞が与えられなかった御家人たちの幕府への不満は高まり、また各地で悪党と呼ばれる在地武士の活動が活発になっていた。
幕府内においても、得宗北条高時は田楽等に明け暮れ、内管領長崎高資の横暴に対する反発もあり幕府政治は不安定なものであった。 |
南北朝期・六角氏の系譜 |
天皇を中心とした政治の復興を目指す後醍醐天皇は、この機会を捉え二度にわたり倒幕を企てるがいずれも未然に発覚し、捕らえられて隠岐に流されることになる。しかし倒幕の気運は盛り上がり、大塔宮護良親王が諸国に令旨を発すると楠木正成や赤松円心が挙兵し、翌年には伯耆の豪族名和長年により後醍醐が救出され西国は内乱状態に陥るのである。
当時、近江守護六角家の当主は泰綱の孫の時信であった。泰綱、頼綱、時信といずれも執権北条氏から偏諱を賜ったと考えられ、両家の関係は親密なものであったと思われる。
内乱が広がるなか元弘元年(1331)の延暦寺攻め、元弘三年(1333)の麻耶城攻めに出陣した時信は幕府に忠誠を尽くし、足利高氏の謀反により六波羅探題が滅んだあとも鎌倉へ落ち行く探題北条仲時らを助ける。しかし仲時は近江国番場にて敵に囲まれ、もはやこれまでと自刃してしまう。仲時一行が野伏に討たれたとの報に接して時信はようやく宮方に降ることになる。新田義貞により鎌倉が攻め落とされるのはこのわずか二週間後のことであった。 |
ところでこの時の京極家当主は「ばさら大名」で有名な佐々木(京極)導誉であった。京極家は幕府内でも重職を占め得宗家との関係も良好であったが、足利高氏が丹波にて挙兵すると導誉はすぐに高氏方へ寝返る。六角時信が幕府崩壊ぎりぎりまで得宗家に忠節を尽くしたのとは対照的であった。
先見の明を備えた導誉は足利尊氏の側近として活躍し、建武政権では惣領家の時信とともに雑訴決断所の奉行を務め、やがて尊氏が室町幕府を開くと建武五年(1338)には近江守護職を与えられる。惣領家六角家にとって庶子家に近江守護職を奪われたことはこれまでなく、大きな衝撃であったであろう。
しかしながら導誉の近江守護職はわずか半年で六角家に返される。鎌倉時代以降、近江国内に築かれた六角氏の統治機構は思いのほか強固であり、導誉の守護就任に対して六角氏被官の強い反発があったためであろう。
すでに六角家当主は時信から息子の氏頼に移っていたが、近江守護職を取り戻した氏頼は幕府軍に加わり各地を転戦する。そして貞和四年(1348)、ついに南朝の御所である吉野が攻略され内乱は収まるかに見えた。 |
南北朝期・京極氏の系譜 |
しかし観応元年(1350)になると、足利直義・高師直の対立により観応の擾乱が引き起こされる。一度は和睦した両陣営が翌年再び対立の姿勢を見せると、どちらに味方するべきかの選択を迫られた氏頼は突如出家し高野山に登ってしまう。父時信と同様に律儀な性格であった氏頼には度重なる幕府内の対立が耐えられなかったのであろう。氏頼の跡は息子の千寿丸(義信)がわずか二歳で家督を継ぎ、弟の山内定詮(信詮)がその後見人となる。
尊氏派と直義派は近江国を戦場として激しく戦い、それぞれの陣営についた六角直綱や山内定詮も主力として活躍する。しかし直義が鎌倉へ退いたことにより近江国の直義派は四散する。そして文和元年(1352)に直義が毒殺されて内乱は終結する。
文和三年(1354)には出家していた六角氏頼(崇永)が還俗し、再び近江守護となる。以後氏頼は幕府内でも重要な地位を占め、近江国内の混乱も鎮まっていく。
氏頼は応安三年(1370)六月に四十四歳で没し、その死は「天下の衰微第一なり」(『後愚昧記』)と言われるほどの英主であった。 |
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