佐々木六角氏の歴史

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四 承久の乱 〜一族対決の悲劇〜

 佐々木秀義が亡きあと惣領家を継いだのは嫡男定綱であった。定綱は守護として近江に本拠地を置き、比叡山延暦寺との争いにより一時流罪となるも後に赦免され幕府の重鎮として活躍した。
 その定綱が元久二年(1205)に病死すると、嫡男広綱が惣領家を継ぎ近江守護となった。広綱は父同様在京御家人となり、後に検非違使、山城守に任ぜられ朝廷との結びつきを強くする。


承久の乱の主な参戦者
赤字=宮方、青字=幕府方)
 承久三年(1221)五月、後鳥羽上皇は源実朝死後の幕府の動揺を衝いて倒幕の兵を挙げた。執権北条義時追討の院宣が全国へ下され、佐々木家では広綱父子をはじめ一族の大半が上皇方に味方することになる。
 しかし東国武士たちはこれに応じず、やがて強大な幕府軍として組織され京に攻め上ってきた。広綱の弟である四郎信綱は当時鎌倉にあり、執権義時の娘婿という関係から幕府軍に参加した。また越後国守護盛綱の嫡男信実も北陸道の大将軍に任命され、幕府軍を率いることになった。
 こうして佐々木氏が一族で対決することになったのである。

 合戦は「十九万騎」(『吾妻鑑』)を集めた幕府軍の圧勝に終わり、後鳥羽・順徳・土御門の三上皇は配流され、上皇方についた武士の多くは斬刑に処された。佐々木広綱父子は非情にも一族信綱の手で斬首されることになる。


 この合戦で信綱は嫡男重綱とともに宇治川の先陣を果たすなど軍功をあげ、広綱に代わって近江守護職、佐々木荘地頭職、その他多くの領地を与えられる。以後佐々木惣領家は信綱の系統に移るのである。


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