佐々木六角氏の歴史

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九 六角征伐 〜幕府との確執、そして決着へ

 十一年にもわたる応仁の乱を乗り越えた六角高頼(行高)は、近江国において確固たる支配力を築いていた。そんな高頼に対して幕府は再度近江守護職に補任、和平を成立させた。しかし両者の思惑は異なっており、必ずしも関係が良化したわけではなかった。

 守護に補任されたならば在京して施行命令を果たすよう幕府が求めるのは当然であったが、高頼はそれに従わなかった。そればかりか幕府からの度重なる寺社本所領の返還命令をも無視し続けた。被官人たちとの関係を思えば、彼らが押領した領地の返還命令など高頼にとって受け入れられるものではなかったのである。

 六角勢の侵略はさらに勢いを増し、寺社本所領だけでなく将軍直属の奉公衆の所領にまで及んだ。近江には多数の奉公衆が所領を与えられていたが、この侵略により奉公衆の中に餓死者が出るまでの事態となった。さすがに将軍の直臣たる奉公衆に深刻な被害が出ては幕府も放っておくことができず、ついに将軍足利義尚の近江親征が決定される。

 長享元年(1487)九月十二日、足利義尚の六角討伐軍が近江に向けて進発する。将軍自ら鎧を纏い出陣する様子を見物しようと京の人々が大路を埋め尽くしたが、実際につき従う者は近習・奉公衆など数千人だけで、各地の有力大名が参陣するのはその数日後であった。このため坂本に着陣した義尚がようやく軍勢を動かしたのは二十日であった。この幕府軍に対して六角高頼は直接対決を避け行方をくらましてしまう。高頼が甲賀郡へ逃げたとの情報を得た義尚は、すぐさま坂本から栗太郡鈎(まがり)の安養寺に陣を移し、甲賀郡に攻め込んで各地に火を放った。しかしすでに六角勢は逃げ延びた後であった。高頼を討ちもらした義尚は下鈎の真宝館に陣を移し、ここに御所を建造して長期戦に備えざるを得なかった。このあと、六角軍のゲリラ戦に悩まされ一年半もの歳月をこの地で過ごすことになった義尚は、征伐の成果をあげられない焦りからか陣所での生活もすさんでいき、ついに延徳元年(1489)三月、二十五歳の若さで病死してしまう。将軍の死によって幕府軍は自滅し、しばらくして高頼は幕府より赦免されることになる。

 しかし寺社本所領の返還をどうしても認めるわけにはいかない高頼にとって、幕府との和平は望んでも実現できるものではなかったのである。義尚のあとを継いだ将軍足利義材は高頼が幕府の命令に従わないとみるや、翌延徳二年(1490)には細川政元を近江守護に任命し、さらに延徳三年(1491)八月、第二次六角征伐を決断する。事前に情報を得た六角軍は前回と同様に甲賀郡へ引き籠り、幕府軍との直接対決を避けた。これにより労せずして近江を制圧した義材は近江一国を御料国とし、本格的に近江支配に乗り出す。六角軍としてはゲリラ戦により幕府軍を疲弊させる作戦であったが、重臣山内政綱が謀殺されたり、明応元年(1492)には愛知川簗瀬河原にて大敗を喫するなど戦況ははかばかしくなかった。

 近江をほぼ制圧し親征を成功させた義材は、幕府奉公衆に対して寺社本所領を宛がい、六角虎千代を近江守護に任命したのち京都に凱旋した。義材は失墜していた将軍権力を回復したことに得意の絶頂であったが、なお六角高頼は健在であり、六角征伐を完全に達成しないままの帰洛を疑問に思う声もあった。

 気をよくした義材は翌明応二年(1493)、畠山氏討伐のため河内に向けて出陣する。ところが将軍権力の強大化を望まない管領細川政元は義材の留守をついてクーデターを起こし足利義澄を擁立、義材は京都を離れたまま将軍の座を追われることになる。またもや運は高頼に味方した。このクーデターにより近江では高頼が力を盛り返し、金剛寺城を取り戻すのである。

 細川政元は六角虎千代に替わり山内就綱(政綱の子)を近江守護に任命し近江制圧を期す。明応三年(1494)十月、山内就綱は延暦寺の援護を得て近江に侵攻、金剛寺城に籠もる高頼を破る。しかし翌月には美濃守護代斎藤利国(持是院妙純)の援軍を得て高頼が反撃を開始し、まもなく就綱・延暦寺を駆逐する。これにより幕府は六角征伐を諦め、高頼は領国を完全に取り戻すことになる。高頼は明応四年(1495)頃には近江守護に還補され、幼少時から数えて実に三十年近く続いた幕府との戦いも幕を閉じる。これ以後高頼がその地位を追われることはなかった。



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