佐々木六角氏の歴史

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七 室町幕府 〜幕府に翻弄される歴代当主〜


室町期の六角氏
 六角氏頼の死後は嫡男義信(千寿丸)が家督を継ぐはずであった。しかし義信は貞治四年(1365)に早世してしまう。そこで氏頼は後継者として京極高秀の子高詮を養子に迎えた。この高詮は導誉の孫に当たる。ところが応安二年(1369)、氏頼に男子が生まれる。名を亀寿丸といい後の満高である。思いがけぬ後継者の誕生に波乱を残しながら、氏頼は翌年死去する。


 氏頼の死によって当然のごとく後継者の問題がもちあがり、幕府は亀寿丸(満高)が成人するまで高詮が後見人として家督を継ぐよう命じる。しかし永和三年(1377)九月になって幕府は高詮の近江守護職を解き、さらに六角家からも追放する。当時、幕府内では管領細川頼之と前管領斯波義将との間で激しい権力争いが行なわれており、斯波派の京極家を抑えるために細川頼之が高詮の六角家追放を推進したと思われる。ともあれ、こうして満高が六角家の家督を継ぐことになった。

 一方、幕府内の権力争いは激化の一途をたどり、康暦元年(1379)になると斯波義将と手を組んだ将軍足利義満により細川頼之が失脚する。これにより幕府実権を手に入れた義満は、将軍権力を強化するために守護権力を制限する政策に乗り出す。幼い当主を抱えた六角家にとってはまさに苦難の時代となった。
 この義満の政策は、「半済地の寺社本所への返還」、「山門使節への遵行権付与」といった形で近江国に影響を与える。六角氏は国内の在地武士を被官化するために半済地の給付という手段をとっており、これを無効とされれば被官関係が崩れる恐れがあった。また、鎌倉時代から常に対立してきた山門延暦寺に対して幕府が守護と同等の権利を与えたことは、六角家にとってこの上ない衝撃であった。

 強硬な態度をとる幕府に対し、六角氏も所務遵行の拒否や所領の横領などで抵抗する。そこで幕府は京極氏や近江国内に点在する奉行衆を派遣する「使節遵行」でこれに対抗した。このように幕府、京極氏、奉公衆、山門等の圧力の中で六角氏は領国支配を進めていくことになる。
 
 足利義満の守護抑圧政策は、その子義持にも引き継がれた。応永十七年(1410)には飛騨国司の謀反に加担したとの理由で満高の近江守護職が解任されるという事件が起こる。満高は三年後には近江守護に再任されるが、幕府と六角氏の関係が冷めたものであったことがうかがわれる。


 幕府と六角氏に大きな転機が訪れたのは、足利義教の将軍職就任である。義教は衰えてきた将軍権力を回復するため強引な政策を推進する。幕府に反抗的な山門に対しても武力で弾圧し、降伏した山門使節を謀殺するという厳しい態度を示した。この騒乱の中で義教は六角氏と京極氏を「山門領押使」に任命し、近江国内の延暦寺領の侵略を命じる。六角家の当主は満高の死後、嫡子満綱に代わっていたが、満綱は合法的に山門領を侵略できるこの機会に領国支配を強化していく。そして満綱は山門領だけでなく国内の寺社本所領にまで侵略の手を伸ばしていくのである。

 順調に野望を進めていた満綱ではあったが、嘉吉元年(1441)に足利義教が暗殺されるとその立場は一転する。義教の死から二ヶ月で、史上最大規模といわれる嘉吉の土一揆が蜂起し、満綱は京の屋敷を焼いて近江に落ち延びることになる。「建内記」によれば六角満綱による諸人所領への侵略が土一揆の原因であり、まもなく満綱は近江守護職を解任されるのである。


 満綱のあとは嫡男持綱が家督を継いだ。しかし持綱は被官人の支持を得られず、文安元年(1444)には被官人の一揆により持綱が大原に脱出するという事件が起こる。事態はその後も好転せず、ついには持綱の弟時綱を盟主とする被官人たちと満綱・持綱父子との間で合戦が起こるのである。結果は飯高山に本拠を置いた時綱側が勝利し、満綱・持綱が自害するということになった。
 この間、幕府は静観するのみであったが、文安三年(1446)になると突然相国寺の僧になっていた時綱の弟久頼を還俗させて六角家の家督を継がせる。そして八月になると時綱討伐の命がくだるのである。久頼には兵力がないため京極持清が援軍として遣わされ、ほとんど戦いもなく時綱は自害し近江平定が完了する。


 これにより文安元年から続いた内紛は終結するが、六角氏にとっては満綱・持綱・時綱を失い被官人の分裂を招いただけでなく、六角家と被官人との関係をも弱めてしまった。さらに平定に京極家の力を借りたことにより、その台頭を許し領国支配への介入を招くことになる。これ以後、六角家と京極家の対立はいっそう激しくなるのである。


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