徳やモラルは歴史的にも、個人的にも遅々として向上しませんね 

~ロシアのウクライナ軍事侵攻を連日、映像で目の当たりにして~

(以下は「カトリック膳棚教会報 ともに120号」に寄稿した小文を当ネット用に加筆したものです)

 

2014年、ロシアがクリミア半島を一方的に併合し、本年(2022年)2月24日にロシア軍がウクライナ国へ軍事侵攻し、(3か月後の)現在も残虐な殺戮と破壊が行なわれている様子が連日映像で伝えられています。80年前にはナチスドイツによるソ連やヨーロッパ各地への侵略や、日本軍による東アジアと東南アジアへの侵略が行なわれ、それ以前にはナポレオンによるロシアやイギリスが統治していたエジプトへの攻略、秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)、日本国内では源平合戦・関ケ原の戦い・戊辰戦争など、領土拡張や権力闘争の決着は最終的に武力と軍事力にもの言わせている状況はいつの時代にも変わっていないことを思い知らされます。

キリストは「平和のために働く人は神の子と呼ばれる」(マタイ5の9)と言われ、第二バチカン公会議の「現代世界憲章」(1965年12月公布)で戦争を断罪(79番~)し、「国連憲章」(1945年10月発効)や「日本国憲法」(1947年5月3日施行)では戦争による紛争解決を否定しているにも関わらず、いつまでたっても、どうして戦争をなくせないのでしょうか。(ちなみに、現在の「カトリック教会のカテキズム要約」―2005年6月公布、そのオリジナル版「カトリック教会のカテキズム」1992年10月公布)では「軍事力が道徳的に正当化される4つの条件」を挙げています。)

 いつになっても戦争がなくせない理由の一つは、科学技術は知見と実証を後世に残し、積み重ねができるのに対し、人間の生き方は各世代の一人一人、そして時の政権保持者が先人たちの体験を参考にはしても自分は自分なりに体験し納得しないと気がすまないという欲求があり、その根底に罪深さが混入しているからではないでしょうか。つまり、大なり小なり人間が罪深いことは世の終わりまで続くことは不変だということでしょう。キリストの十字架の贖いが、ある時点から不要になるということはないのです。それは自分の歳が進んでもちっとも徳が磨けないのと似ているのではないでしょうか。ですが、いずれの世に生きることになる人も、そして加齢しても、神の愛に見倣い、まして神の愛に反することを少しでもやめ、またそう努力して人間のモラルを向上させたいものです。

 それでは、こういう習性を持つ人間にとって、キリスト教の信仰はどういう位置づけになるのでしょうか。少なくとも、主イエスを信じることはこの世のご利益を保障していません。主イエスが説かれる平和、「私が与える平和はこの世が与えるような平和ではない」(ヨハネ14の27)という「平和」を求め続け、神が計画されている救いを完結させてくださるように、そして、主の再臨を相応しく待ち望む生き方ができる勇気と力と恵みを願い続ける必要があります。

今、ウクライナや世界各地の戦乱の中にあって主イエスのみ言葉、「戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」(マルコ13の7他)を想起しつつ、現在、命が奪われる恐怖、戦争の前線で戦闘行為に携わり、また命令により同胞の命を奪わなければならない兵士たち、すでに家族の命が奪われるか捕虜や拉致されている人たち、避難のため郷里を離れ、防衛要員として出国を許されない夫や息子と別れて女性・子ども・年配者だけで国外に逃れている方々に何をすればよいのか祈り求め、個人・自治体・国・教会がそれを実行できますように。そして、絶対にあってはならないことですが、私たちもいつか同様のことが自分にあるいは自分の国に起こったときに信仰に基づいた言動を勇気を持って行えるよう祈ります。アーメン。

(2022年4月29日記)

トップ頁へ
HOME

〇 ロシアのウクライナ軍事侵攻を連日、映像で目の当たりにして
〇 老いぼれ神父が若年層の皆さんに期待すること

〇 年間第4主日(2022年1月30日 (寺尾總一郎担当の説教草稿)
 聖ヨセフに架空インタビュー
〇 聖書の神・キリスト教の神・私が信じる神 
〇 福者カルロ・アクティス(Carlo Acutis)から学ぶこと
〇 待降節第1主日(2020年11月29日 <マルコ 13・33-37>)

○ ハドソン川の奇跡が天国でも起こりますように
○ 新型コロナヴィールス地球的蔓延の只中にあって 

〇 神父たちの戦争体験を語り継ぐ

〇 信徒使徒職の形態は司教・司祭・修道者と同質でなく、・・・

〇 京極マリアの信仰の軌跡
 

〇 高峰譲吉博士の名残り、アリゾナの教会

その他、現在アップ中の小文集です

トップ頁へ
HOME