寺尾総一郎記
[本稿はカトリック一宮教会の「ファミリーニュース」2007年5月号から12月号に寄稿した短文をベースとし
て、本ホームページ用に編集しなおしたものです。]
人は自分が生きた証明を残したいという習性を持つといわれていますが、百年後、千年後、三千年後に名を残す人は
ほんの一握りにすぎません。今回は、イエス・キリストと関わりを持ち、かつ一般の歴史でも名を残したポンティオ・
ピラト、コンスタンティヌス大帝、信長・秀吉・歴代の徳川家将軍のような人と共に、NHKの大河ドラマの主人公に
なっても遜色のないと思うマリア京極於慶(1542年〜1618年8月20日)(俗名は不詳ですが、渋谷美枝子著
「歴史小説 京極マリア」(船田企画刊)で称されているこの名をここでは使わせていただきます。後に登場する於慶
の娘たちも同様とします。)を通して、彼女の信仰とその生き様を見たいと思います。ご存知の方も多いと思いますが
、彼女は浅井久政の娘、弟は浅井長政(=賢政)です。長政の妻は織田信長の妹のお市の方でしたから、於慶にとって
信長は義理の弟であり、浅井長政・お市の間に生まれ、数奇な運命をたどった3人の娘、即ち、秀吉の側室にされる茶
々、於慶の長男、高次の妻となった二女の初、秀吉により、まず佐治一成(与九郎)に嫁がされ離縁させられ、次に秀
次の弟岐阜宰相秀勝に嫁がされ、彼は朝鮮戦役で戦病死、3回目に徳川秀忠に嫁がされる末娘の小督(=お江、於江与)
は京極於慶の姪にあたります。1567年、お市が浅井長政に嫁いだ時、長政には妾腹の子、万福丸と別腹の4歳下の
虎千代丸がおり、お市はこの二人も継子として慈しみ育てましたが、万福丸は信長の命令で殺害され、虎千代丸は浅井
喜八郎となり、大和国郡山城主の豊臣秀保の家臣となりました。ということで、於慶は日本の最高権力者であった信長
・秀吉・徳川の三代と姻戚関係があり、当然、中央の主要人物やその一族たちと面識がありました。
於慶が19歳の頃の1562年、彼女は近江(現在の滋賀県)の名門佐々木京極家、高清の息子、小谷城主であった
京極高吉(=高慶=高佳、この結婚当時59歳)の後妻として政略結婚させられ、2人の息子(高次、高知)と3人の
娘(龍子、阿也、千代)を設けます。1573年、浅井家が信長に滅ぼされると高吉は小谷城を長男の高次に譲り、近
江上平寺城に隠居します。その後、高吉・於慶夫妻は信長が開いた城下町安土に居を構え、すでに異国の教えとして耳
にしていたキリスト教に身近に接する機会を得ます。つまり、安土を日本の教会の拠点にすることを目ざし、教会堂や
セミナリヨを開設していたグネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父(Gnecchi‐Soldo Organtino, 1533年 - 1609
年4月22日)たちからキリスト教の教理を学び、1581年、夫婦そろって受洗し、戦乱時代故の身近な死や残虐に殺
された死体を目にすることが多い時世にあって、永遠の命の喜びを、信仰を通して噛み締めます。これは結婚20年目
のことでした。(於慶の洗礼名はマリア、本稿では以後、京極マリアまたはマリアと記述。夫高吉のクリスチャンネー
ムは不詳)
高吉は受洗まもなくして78年の生涯を閉じますが、マリアは一門を始め、多くの人に信仰の喜びを伝える使徒職活
動を篤い祈りと共に邁進していきました。 (以下、次号に続く。2007年5月20日記)
二男 高知(たかとも)の場合
今号からは、京極マリアと子供のたちの関係を信仰の観点から見たいと思います。マリアと夫高吉は5人の子供たち
がかなり成長してからキリスト教に出会い入信したので、一緒に幼児洗礼というわけにはいきませんでした。受洗後、
間もなくして夫を亡くしたマリアは使徒職、特に5人の子供たちがキリスト教入信の恵みをいただけるよう祈り、思慮
深く働きかけていきました。息子で先に受洗したのは、次男の修理大夫高知(1571年〜1622年8月12日)で
した。彼は秀吉から1591年に近江蒲生郡内に5千石を授かり、最初の妻織田信澄の娘澄の病死後、毛利秀政の娘と
再婚、1593年、秀政の父毛利秀頼の病死に伴い、信濃伊奈を遺領として受け統治します。ルイス・フロイスの年報
には、彼は1596年、大坂の教会でジョアンという洗礼名で受洗したと記されているとのことです。マリアはこれに
心から神に感謝します。受洗当初は領地に宣教師を招いたり、友人を信仰に誘うほどの熱心な高知も、主君秀吉のキリ
スト教迫害が始まると信仰への関心は薄れたようです。1600年の関が原の戦いでは徳川方につき、家康から丹後の
国を受領し、丹後宮津12万3千石の大名になります。1602年にはマリアの感化もあって後妻も受洗したようです
。統治手腕に優れた高知ですが、信仰面では高山右近のような潔さを発揮できず、徳川幕府の宗教政策に追随したと思
われます。しかし殉教を覚悟している母マリアにそれだけは免れさせるために、隣国若狭領主となったの兄高次と心を
砕きます。高知は50歳で病死し、遺児たち(養子にした妹マグダレナ千代の二男高通、妾の子高三、後妻の子高広、
常子など)がその後を継いでいきます。信仰心篤いマリアからみれば、高知の信仰生活は好ましくないわけですが、歴
史を導かれる神に寛大な慈しみを願い、このキリシタン大名と母マリアを偲びたいと思います。因みに、高知公の墓所
は兵庫県豊岡市内の旧瑞泰寺、菩堤寺は京都市内の大徳院芳春院と舞鶴市内の見樹寺です。
(2007年6月14日記)
長男 高次(たかつぐ)の場合
今回は京極マリアの長男、京極高次左少将(1562〜1609年6月4日)について信仰の観点から想像したいと
思います。彼は1587年、浅井長政と市の次女の「初」(1570〜1633年8月27日)、つまりマリアの姪と
いとこ同士の結婚をしていたので、マリアはまず丹波のキリシタン武将ジョアン内藤飛騨守忠俊の妹、内藤ジュリア等
に初を入信に導くように協力を願い、1601年頃、受洗に漕ぎ着け、続いて、初や弟の高知の働きかけもあり、高次
は入信に至ります。その時、高次39歳、秀吉臣下として近江の八幡や大津の城主を経、関が原の戦いでは徳川方につ
き、家康から若狭国(現在の福井県)小浜藩を授かった時期でした。母より9年早く47歳で帰天したので、母マリア
からも最後まで信仰的な励ましや慰めを得たことでしょう。彼の墓所は滋賀県山東町の清滝寺徳源院ですが、松江市教
育委員会は2004年、同市内安國寺境内にある松江藩二代藩主京極忠高が亡父高次のために造営した供養塔を同市指
定文化財に定めました。高次夫妻や京極マリアは家康や秀忠等徳川幕閣と血縁や親交がありながらも、所詮臣従の立場
、幕府の反キリスト教政策強化に対して如何ともし難いことでした。
高次の帰天後、初は常高院と号し出家します。徳川の世になったとはいえ、大坂に姉の茶々(淀殿)とその子秀頼が
陣取っていたとき、大坂冬の陣では、初は講和を成功させましたが、1615年の夏の陣では、北ノ庄城で自分たちの
母お市が落命したのと同じように、大坂城落城の中で姉茶々と甥秀頼が落命していく落胆を味わいます。初には実子が
いなかったので、夫高次の側室の子、忠高や高政をはじめ、秀忠の娘(母は妹の於江与=小督、後に京極忠高の正室)
や氏家行広の娘の古奈(母は高次の妹阿也)らを熱心に養育したようです。初は洗礼を受け、キリスト教の修道生活も
心得ていたでしょうから、外面的には仏教の形式を装いながら、内面ではキリスト教的修道生活を取り入れたかもしれ
ません。(2007年7月20日記)
娘たちの場合
京極マリアは高次(1563∼1609年)と高知(1572∼1622年)の男子と共に、秀吉の側室の一人として有名な龍子(松の丸
殿)(?∼1634年)、美濃の氏家行広(1546∼1615年)の妻となった二女(松雲院、俗名=阿也?、?〜?年)、江戸幕府
旗本になる朽木宣綱(1582∼1662年)の妻となった三女(洗礼名=マグダレナ、秀隣寺殿、俗名=千代?、?〜1606年)
の女子3人の母でもありました。マリアは長女の龍子や姪の茶々がキリスト教では容認しない結婚形態、つまり秀吉の
側室となっていることに心を痛めつつも、母娘の交流は密でした。というのは、龍子がそのような境遇になる前は若狭
守護の武田元明(1552ー82年)に嫁し、2子をもうけますが、元明が明智光秀の謀反に加担したため、秀吉に息子共々
滅ぼされ、龍子の弟、高次も危うく同じ運命をたどるところでした。龍子は京極家滅亡を救うために、その仇秀吉の妾
になることと引き換えに高次を救い、京極家再興と出世のチャンスを与えた人物であるので、いわば京極家の助け神で
した。龍子は秀吉他界後、そして豊臣家滅亡後、仏教徒として洛内にて菩提を弔い生涯を閉じました。つまり、クリス
チャンにはなりませんでした。それにしても、秀吉が従姉妹同士になる茶々と龍子を最上位の側室にしたのは、魅力あ
る女性であったと同時に、その血筋を外交面で利用したかったからではないでしょうか。
マリアの二女(阿也?)の夫、氏家行広は関が原の戦いで西軍に、そして大坂城落城の時は茶々(1569〜1615年)と
秀頼(1593〜1615年)の介錯をして果てただけに、マリアはこの不憫な娘が永遠の命を信じるように祈り、やがて大坂
で受洗の恵みを受け、晩年の母のマリアをよく見舞ったようです。
マリアの子供の中で最初に受洗したのは末娘のマグダレナで、18才のとき、安土においてでした。彼女はクリスチ
ャンとして朽木家に嫁ぎ、母マリアや夫宣綱たちに看取られ、若くして病死しました。マグダレナの葬儀は本来、朽木
家ゆかりの寺で行われるのが本筋なのに、朽木家はマリアの要望に根負けして、京に建立されたばかりの教会堂で行な
われました。これは後日、仏僧の反発を招き、家康のキリシタン弾圧強化の一因になったともいわれています。家康は
キリスト教に造詣が深いはずですが、秀吉のキリスト教禁止政策を継承し、2008年11月24日「福者」に列福さ
れるジョアン原主水(1587年ごろ〜1623年12月4日)など家康の忠臣をも含むクリスチャンたちを大勢虐殺
しました。そういう禁教の時勢の中にあって京極マリアは殉教覚悟で一心にキリストへの信仰を貫き、一族にもそれを
薦めたのでした。(2007年9月22日記)
万事、主イエスに託す
1587年の秀吉の伴天連(神父)追放令の10年後、畿内の信者23人が捕縛され、最終的に26人が長崎で処刑
されました。(いわゆる日本26聖人殉教者)京極マリアはその中の1人、安土以来の信者仲間であるパウロ三木を京
一条の牢に信者と共に慰問しますが、かえって激励されたとのことです。捕縛されて2日目、彼等は京の辻で左耳たぶ
を切り落とされます。その様を群集と共に見守っていた京極マリアは彼らの傷口の手当てをしようと走りよりますが、
刑吏の槍で制止されたとのことです。そうであれば、マリアはあたかも「十字架の道行き」に登場するベロニカでした
。切り落とされた耳たぶは、最終的にオルガンティノ神父が引き取りを許されたとのことです。マリアたち信者は彼ら
が載せられた荷車の後を鼻緒が切れるのも気にせず、夢中でついていきました。彼等は十字架の道行きに登場するエル
サレムの女性たちを想起させます。
マリアは徳川の代になった大坂や京で、その身分を利用しながら、オルガンティノ神父たちと宣教活動に関わり、同
神父は「京極マリア殿の感化で2年の間に900人が受洗した」と述べたとのことです。ですが、家康の天下取りの武
功を認められ、若狭の大名になった高次は畿内で公然とキリシタンと称し、熱心に布教活動をしている母マリアを放任
しておくことを憚り、丹後の大名になった弟、高知の領地との国境の泉源寺(現在の舞鶴市東部の地名)の竹やぶを切
り開いた土地に3間半四方の庵を建て、そこに侍女と共に匿いました。マリアはそこで村人とも馴染みになり、泉源寺
さまと呼び慕われ、その住居(修道院兼布教所)は此御堂(こみどう)と称されるようになりました。もちろん、身内
もよく訪れ、神父の巡回もありました。元和4年(1618年)7月1日、75歳で神に召され、没後380年目の1
998年6月28日、カトリック京都教区京都北部三教会は此御堂近くの真言宗古寺笠松山「智性院」にて同寺と合同
で追悼祭を営みました。マリアは外見的に仏教徒を装わされ、外見的な殉教者にはなりませんでしたが、内面において
はキリストへの信仰と愛を保持して、一族にもそう促し続けました。主イエスの御母聖マリアが全ての殉教者の母と呼
ばれるとするならば、京極マリアは日本の殉教者たちの母だったと思います。不肖私も天国にたどり着きましたときに
は、ゆっくりとお話を伺わせていただきたく思います。彼女の時代の日本語が理解でき、私の現代語の日本語が彼女に
も十分通じると思いますし、理解してもらえると思います。もちろん、日本語を話さなかった私の洗礼名の使徒ヨハネ
をはじめとする私の敬愛する日本語を話さなかった諸先輩たちとも、天国では通訳なしに交流できることを信じます。
(2007年10月20日記)
追記
(1) 戦国時代、浅井長政の姉として生を受け、京極家に嫁ぎ、夫高吉と共に安土で洗礼を受け、一途にキリスト
教の信仰を生き、一族と周辺の人々に布教した京極マリアについて私なりに調べ、想像した生き様を5回にわたって書
かせていただきましたが、彼女に「あなたにとってキリスト教信仰は何だったのですか」と質問したとすれば、「主イ
エス様が『私』を大切にしていてくださる(愛していてくださる)ことを実感し、身近に死と死体を体験している時世
にあって、死を越えた永遠の命が用意されていることを悟り、信じたからですよ」と答えるような気が致します。どん
な任務や使命であっても、それを託した方に対する愛と忠義を感じなければ、命を懸けてまでの純粋な行動はできませ
ん。主イエスは駆け引きや損得勘定なしに純粋に私(たち)を愛してくださっています。京極マリアはそれを感じ、そ
れに応えて生きた人だったと思います。
元来はプロテスタントの讃美歌集312番に掲載され、現在は「カトリック聖歌集」657番にも転載されている「
慈しみ深き」の歌詞3番に「世の友、我らを棄て去るときも、祈りにこたえて労わりたまわん」とありますが、世の友
に棄て去られる理由が、主イエスが余りに天の父に忠実であられたようにクソ真面目すぎるから、あるいは余りにも重
罪人であるから、あるいはその他のどんな事由であるにしても、主イエスはこんな私をお見捨てになることはないとの
御眼差しや御心遣いを感じさせていただけるように、そしてそれに全身全霊をこめ、夢中になって応えている中に「喜
びと希望」を見つけることが可能であることを悟り、そのように実行する恵みを願い続けていくことができればと思います。
(2) ここで、私が描いた京極マリア像は、私の推測の域内で述べたのにすぎない部分が多くあります。また、史
実としての彼女の資料がほとんど現存していないのは、キリシタン禁制のもとで、京極家の存続を優先した子孫や関係
者が廃棄または隠匿したからだと思われます。これだけ日本のキリスト教に影響を与え、しかも3代に渡る日本の中枢
権力者に顔の利いた彼女の資料が現存しないということは、それだけ彼女が幕府にとって絶大な影響を与える人間であ
り、かつ京極家にとっては、同家のキリシタンの痕跡を抹消したからだと思います。もちろん、京極マリアでなくても
、信長・秀吉・家康の室たちのことすら、正確な生年月日、出自、素性などが明確に分かってはいないことからすれ
ば、京極マリアについても当然かもしれません。
現在のように立法・司法・行政の権力が分散されている国の統治方式とは全く異なる、つまり国の統治権力とその権
限を与えた臣下や民の命までも一手に握っていた秀吉や徳川幕府のもとにあって、お上がキリスト教の信仰を禁止した
場合、領地を託された大名たちはその意向に従わざるを得ません。京極マリアも自分に殉教の覚悟があっても息子たち
が高山右近のように領地を捨て、信仰を優先するようにまでは強いることはできませんでした。また、一族と累代に罪
科が及ぶとあれば、息子たち、そして京極家のために、自ら積極的な布教活動は控えなければなりませんでした。
私が本稿を書いているとき、読売新聞では諸田玲子氏の「美女いくさ」(浅井長政の三女、茶々と初の妹、2代将軍
秀忠の正室となる小督、つまりマリアの姪が主人公)が連載されていることも京極マリアさんが与えてくださったご縁
かと思います。時々、この連載の中に京極家の人々が登場して懐かしく感じます。(2007年12月7日現在184
回目。2008年3月2日完。単行本「美女いくさ」中央公論新社2008年9月刊 文庫本中公文庫あり
最後に、本稿に登場する年号や月日について、当時の日本の暦とそれを西暦に換算した年月日が正確に対応していな
い可能性があることをご容赦ください。
参考ホームページ (2019年9月26日更新)
http://www6.plala.or.jp/pax-terao/sub-urllist3.html
(キリシタン総合参考ホームページ特集)
上記以外に
http://home.att.ne.jp/yellow/sanatorium/seki/sklist042.html
http://d.hatena.ne.jp/sanraku2/20060227
http://www.kyoto.catholic.jp/christan/iseki/isekibb.html
http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/nazofushigi/nazo6.htm
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/asai.htm
http://www.m-network.com/sengoku/haka/takatsugu450h.html
http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/otsu.html
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kyougokutakatomo.html
https://sengoku-g.net/men/view/126
https://rekishi-style.com/archives/961
http://sengokudama.jugem.jp/?eid=678
http://maipress.co.jp/news/area/京極マリアらしき墓見つかる-「泉源寺さま」と、.html (投稿日時:2011年4月19日)
https://koujiyama2.at.webry.info/201005/article_848.html
https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/026000403 (更新年月日:2016年07月20日)