別府南無の会スタッフが経典の一節をご紹介致します。
理趣経 | 般若心経 | 願文(浄土宗) |
舎利礼文 | 正信偈 | 法華経 |
■■■項目(2000 年版)■■■
阿弥陀経 | 維摩経 | 観音経 |
金剛経 | 法華経U |
池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔
お釈迦さまが、阿弥陀仏が建てられた極楽(浄土)についてそのありさまを説明されています。この一文は、極楽(浄土)にある池のご様子です。
日本でレンゲというと春に田畑に花咲くレンゲ草を思いますが、ここでは、水面の上に花を咲かせるインドの蓮華です。たとえ泥の中でもきれいに咲くということで蓮華を大切にしています。そのため、仏教では、蓮華は、仏・菩薩の座となり、法門にたとえ、仏を象徴します。湿地の泥沼でも蓮の華が咲くように、私たちの煩悩という泥の中に、阿弥陀仏からの信心が生ずることをたとえています。
また、「それぞれにそれぞれの光り輝きがある」ということには、「《それぞれの個性を尊重しなさい。それぞれに素晴らしいところがあるのだ。》と認め、受けとめることが大切なのだ」、というお釈迦さまのお諭しがあります。
(M・T)
「菩薩はいかに衆生を観ずるや」
答えて言う「水中の月のように、鏡のなかの傷のように熟い時の焔のように、呼声の響のように、空中の雲のように、水のしぶきのように、水上の泡のように、芭蕉の堅きところのように、電(いなづま)の久しく住(とど)まれるもののように見る」
「問疾品」のなかで、主人公の維摩居士と文殊菩薩が問答をしているのですが、その一節で、有名な言葉です。
この中の、水上の泡から『方丈記』の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例しなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。」という名言が生まれたと言われています。
「人の命、人生というものは、水の泡のようなものであり、いつ消え去るかわからないものなのだから、そんなものに執着してはいけない。人生は無常なものなのだから、さらりと生きて行くことが大切なことだ。」と、維摩経は教えています。
そうはいっても、世の無常に直面したとき、私たちはあまりの悲しさ故に、無数の涙を流しますし、また流さずにはいられません。この無常観からしみじみと溢れ出す涙を真実の現れとして大事にして行かなくてはなりません。
このお経は、大乗仏教の入門書とも言われており、既成の仏教(上座部仏教)に対する大乗の教えの真髄を説き明かしてくれるものになっています。
(K・K)
まさに比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷身を以て度るを得べき者には、即ち比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷身を現じて、為に法を説く。
観音さまが変身する三十三のお姿の一つです。観音さまは変身上手です。仏さまから子どもまで、なんと仏教以外のお坊さんにまで、色んな姿に変身して現れてくれます。ここでは観音さまが、仏教を信奉するもの姿となって教えを説くぞ、とお経は語っています。
昔、渥美清さんのインタビューで、自分と寅さんとの区別がつかなくなることがある、と聞いたことがあります。芝居の上手な役者さんですら、役と自分とがわからなくなてしまうように、観音さまも熱中するあまり、凡夫である私達と区別がつかなくなっているのかもしれません。誰にも分からないように変身しているのですから。
こうして南無の会にいらしている方々は仏教徒だから、いまこれを読んでいるあなたは、観音さま!、前に座っている方も観音さま!かもしれません。
(K・S)
無所得(むしょとく)
我々人間には、実にたくさんの欲があります。基本的には、食欲、性欲、睡眠欲ですが、その他数えれば切りがありません。その上、それらの欲には、際限がありませんし、欲というものは次から次へと増加してゆくものです。そして、その深みにはまると、どうすることもできず、終には非人間的行為にはしってしまいがちです。
しかし、すべての欲望を満たそうとする気持ちのおろかさを知り、あらゆるものは 「無所得」(得るところ無し)であるということに気がつくと、さわやかで平安な境涯に安住できるものです。けれども、これは、欲望を断ち切ろうとする努力ではありません。その努力さえも欲望となってしまうから注意すべきものなのです。
さわやかな本来の自己に目覚めるために南無の会が一助となるなら、うれしい限りです。
(S・H)
是中皆応 起塔供養 / 是の中に皆塔を起(た)てて供養すべし
法華経神力品の一節です。 「塔」はインドの古い言葉でスツーパといいます。昔はお釈迦さまのお骨を安置するため、あるいは供養、報恩のためのものだったが、今では高くそびえる建造物、別府タワーみたいなものを塔と呼んでいます。
その「スツーパ」に漢字を当てたのが「卒塔婆(そとうば)」で、お盆・お彼岸・ご法事等で使用する宗派も多くあります。その卒塔婆の上部を見ますと、五段に刻んでいます。それは日本古来からの供養塔、五輪の塔を形どっています。インドのスツーパと日本の五輪の塔をミックスして二で割りコンパクトにしたのが、現在使用されいている木製の卒塔婆なのです。
この経文の直前で「野外でも家庭でもお寺でもどこでも供養する時には、そこは道場なのだから、必ず塔を建てなさい。そうするとたちまち成仏しますよ」とお釈迦さまは教えています。
(G・T)
ご存知の通り、お経はもともと仏教の発祥地インドの古い言葉で書かれた(伝承された)ものです。
落語の世界で使われている「高座」や「弟子」は仏教のことば。手ぬぐいは「まんだら」という。
落語の祖とされているのは、浄土宗の説教師である安楽庵策伝師。豊臣秀吉の前で「落とし話」を演じたと伝えられている。それだけに仏教から題材をとったものが多い。
「寿限無」。待望の男の子を授かった男が和尚さんに名前をつけてもらう。長命を願うあまり候補に上がったものを全部つけて大変に長い名前になるという話。「寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の水行末雲行末風来末‥」
なお、寿限無は浄土真宗の本典「無量寿経」からつけたもの。
「大師巡り」、「悟り坊主」、「大師の馬」は真言宗に題材を求めた落語。悟り坊主には、むかし弘法大師が人の心をごらんになるために、わざと汚い服装をして全国をお歩きになったという一節がある。
「万金丹」、「小言念仏」は、浄土宗に題材を求めた落語。南無阿弥陀仏と念仏を唱えるあいだ中何かかにか小言をいうのが、小言念仏。
真宗系では「宗論」、「お文さま」がある。
「法華長屋」では、熱心な法華信者の大家さんが登場。この大家さん、日蓮宗宗の人しか家を貸さないし、売り来る商人も日蓮宗でないと買わないという徹底ぶりのお話し。「鰍沢」、「甲府い」、「法華豆席」もある。
「野ざらし」、「こんにゃく問答」、「野崎参り」は禅宗系の落語。
向島に釣りに行って人骨を見つけ回向するとお礼に美しい幽霊が
訪ねてくるというお話が、野ざらし。
宗派に関係なく仏教のことばがでてくるものとしては、「血脈」、「大山参り」知ったかぶりの和尚さん登場の「転失気」、好色坊さんの「きらいきらい坊主」、らくだというあだ名の長屋の嫌われ者の葬式を乱暴者の兄貴分がとりしきるはなしの「らくだ」、葬式では「くやみ」もある。
お墓では、「お見立て」、「墓違い」があり、「へっつい幽霊」という幽霊はなしもある。
これ以外にも仏教に関連のある落語は数多く存在する。
◆煩悩はお客さん
「たとえ諸慾に住すとも蓮華の客塵の諸垢の為に染せられざるが如く」
(理趣経第四段より)
私たちは、たいてい一つや二つの悩みはもっているものです。家庭のこと仕 事のことその他さまざまなものがあります。ふつう煩悩は、悪いものであり取り 除かなければならないものだと考えるのですが、面白いことに理趣経の中では、 もともと私たち人間は煩悩などはもっていないとされています。煩悩とは、塵の ようなものでわれわれにお客となってついてきているだけなのです。このことを 仏教では客塵煩悩といいます。
つまり、われわれが営む日常生活の暮らしのなかで知識や知恵を身につけて いくうちに、いろいろな欲といった百八つの煩悩(貪・瞋・痴の三毒)が生じ本 来の自分を失っていくのです。ですから、もともとの自分に帰れば、お客は、い つかは帰るものなのです。したがって煩悩もまたなくなるもの、消えていくので す。
よくこのたとえに、蓮の花は泥の池より水上に茎を真っ直ぐに伸ばし、きれ いな花を咲かせます。その花の上に、仏さまや菩薩さまはお座りになっておられ ます。私たちも速やかに本当の姿にもどり心の中にみ仏のお座りになる清浄な花 を咲かせるようになりたいものです。 (K・K)
「色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり」この一句は、大乗仏教の原理を巧 みにいい現わしている。
「色」とは、いろ・形をもったすべての物質的存在をいい、「空」とは、固定 的実体のないことを意味している。この世の中にある一切の事物は、因と縁との 和合によって生じたものであって、互いにもちつ、もたれつの関係にある。した がって流動し、変化しつつある存在である。
存在しているといっても、それは仮の、一時的な存在であって、所詮は消滅し てしまうものである。このように、世間の実相は、有るようで、なく、ないよう で、有るものである。これが本当の相である。それは誰しも認めざるをえない真 理である。「心経」は色に執着し、それに囚われるものに対して「色は即ち是れ 空、空は即ち是れ色」と誡めているのである。
(S・H)
願わくは弟子等、命終の時に臨んで、心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せず 、
身心に諸の苦痛無く、身心快楽にして、禅定に入るが如く。
聖衆現前したい、佛の本願に乗じて阿弥陀佛国に上品往生せしめたまえ。
彼の国に到りおわって六神通を得て十方界にかえって苦の衆生を救摂せん。
虚空法界尽きんや、我が願もまたかくの如くならんと、発願しおわんぬ。
至心に阿弥陀佛に帰命したてまつる。
(「発願文」原文は漢文ですが読み下し文にしています。)
臨終行儀の中からの抜粋です。大意は「臨終の時に心が落ち着き、静かであ り、座禅をしていらしゃる佛さまのようでありますように。阿弥陀さまをはじめ 佛・菩薩さまが目の前に現れて、阿弥陀さまお浄土に往生させてください。阿弥 陀さまのお浄土に着いて佛さまと同じように力を得ましたなら、あらゆる世界の 生きとし生けるものを救済しようと願っています。私の願いは虚空と同じように 尽きることのないものです。心から阿弥陀さまに帰依致します。」です。
(K・Y)
以佛神力 利益衆生 発菩提心 修菩薩行 同入円寂
(舎利礼文から)
わがこころに拝めば 佛のすがた目にうかび われとみ佛融けあえり簡潔にして真言宗の教えの大要を述べている一節だと思います。この経を訳さ れたのは不空三蔵で、弘法大師は不空三蔵の孫弟子にあたります。この経文は禅 宗でも読まれています。
(K・S)
正信偈より
『正信偈』は、六十行、百二十句からなる偈(漢文によるうた)です。浄土 真宗では、僧侶や門信徒を問わず、これを朝な夕なにご仏前でおつとめされるの で[お経]だと思っておられるかもしれませんが、正式には、親鸞聖人による漢 文のうた(偈)です。
親鸞聖人は、ご自分の宗教的立場を明らかにされた主著である『教行信証』 を表されました。これは、浄土真宗立教開宗の根本聖典です。六巻からなる著書 の第二巻目のおわりに書かれたものが『正信偈』正式には【正信念仏偈】といわ れます。七文字を一句として、百二十句つづきます。この最初の一行二句は、親 鸞聖人ご自身のお気持ち「はかりしれない生命をもつ阿弥陀如来を信じ帰依いた します。」と、述べられています。
なお、この百二十句の『正信偈』を『教行信証』から独立させ、親鸞聖人が 詠まれたご和讃といわれるものを加えて朝夕のおつとめにできるようにされたの は蓮如上人という方です。それもこれまでとちがい木版によるものでした(一四 七三年)。これにより、限られた人にしか届かなかった親鸞聖人のお聖教が多く の人々にもいきわたりました。その蓮如上人は、来る平成十年、五百回忌のご法 要が営まれます。(M・T)
(妙法蓮華経如来寿量品第十六より)
生まれもった性質を直おに保ち、そして意(こころ)を柔軟にするの意味。
性質・性格だけをつらぬくとガンコ者、心だけ柔らかく持っても主体性のない 八方美人と嫌われる。両方を持ち合わせてないといい人間とはいえない。簡単な ようでなかなかむつかしい。
八十才半ば過ぎたあるおばあさんのお話。
「若い頃さんざん苦労をして、歯をくいしばって我慢し頑張ってきた。世の中 の裏も表も見てきたし、酸いも甘いも味わってきた。ところが歳を重ねるごとに 性格が丸くなってきてもよさそうなのに、逆に意地悪くガンコになってくる。ど うしてなんやろうか。」と嘆く。
「両方そろっている人はいませんよ。自分でわかっているだけでもいいですよ 。むしろ人間らしくていいんじやないですか。」と答えた。
お年寄りみんながそうではないでしょうが、若い時に比べ、全てがゆるんで くる。このおばあちゃんは理性が少しゆるんだのかもしれない。肉体的・精神的 に我慢がなくなっていくのが老いの現象なのだろう。それは許されることである 。
これが、我われならそういう訳にはいかない。時々自分の持っている性格だ けを表面に出し怒鳴る時がある。それが本性なのでしょうが、普段人間は理性で 悪い性格をおさえている。それが理性というブレーキがあまりきかない時がある 。ましてや心を柔軟にということまで頭が回らないし、相手の気持ちや心を思い やることなどとうてい余裕もない。理性のタガが
はずれた性格だけが表面に出て、判断力を失ってしまう。これが複数でとなる と、それはもう修羅場である。
理性を強く持ち保つためには知性を身につけ判断力を養わなければならない 。
では、どうすればいいか。この「南無の会」でいろんな方がたのお話を沢山 充電するのも一方法だ。
(G・T)